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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2021年1月18日京都新聞「詩歌の本棚・新刊評」

人の意識は今、途方もない不安に揺らいでいるようだ。無意識もまた立ち騒いでいるのではないか。一方詩は「天から降りてくる」とも言うように、無意識を感受して生まれる。この不安な時代から新たな詩が生まれないとも限らない。夢、幻想、トラウマなどの在処である無意識は、詩にとって恐ろしくも甘美な母胎でありうるのだ。今詩と無意識の関係はどうなっているだろう。
 一色真理『幻力』(モノクローム・プロジェクト)は言葉と無意識をめぐる詩集だ。幼年期に閉じこもったままの死児を思わせる「ぼく」が、根源的な存在の不安を語り続ける。父母への愛憎、大人になる時間の不気味さが、底なし沼のように渦巻いていく。世界は邪悪な無意識に浸され、破局へ向かって軋む。だがそのどこか片隅で言葉は安らかに眠る。言葉を求める者の最後の希望として。
「もうことばは絶滅してしまったと言う人もいる。/いや、死んでしまったのはことばではない。/ことばを見つけることのできる人がいなくなっただけだ。//ぼくやきみはその最後の生き残りかもしれない。」「〈顔のない盲目の反向日葵はいつも真夜中の太陽の方を向いて咲く。/〈深夜、闇より黒い巨大な目が恍惚と見開かれるとき/〈反向日葵は昼間見失った自分の顔を取り戻すという。//〈きみがいつも夜遅くまで起きているのはそのためだ。/けれど、今夜も真夜中の太陽は昇らず、反向日葵も顔のないまま/〈きみは古ぼけた詩集のページをめくり続ける//――暗喩の中に生き残ったことばが眠っているかもしれないから」「約束してほしい。/もし生きていることばを見つけても起こさないで/そのまま立ち去ってくれないだろうか。//――ことばは眠っていてさえ、美しいのだから」(「暗喩」)
 為平澪『生きた亡者』(同)は、生と死の境界で危うく生きる「私」と、死してなお「私」の無意識に生き続ける親族たちが繰り広げる、不穏で切ない悲喜劇を描く。意識と無意識の境界で都市の時空は土俗性をまとい、死者の気配が立ち込め物も生命をおびる。過去は今に浸透し、今は何時でもない不穏な時間になる。
「死んだ父が/殺された、という/名札をつけて立っている//その横をコンビニ袋に/かつ丼を入れた男が/実存の靴を鳴らして歩く//蛍光灯の下で/頭だけ照らされた女が/命について考えると/部屋には沈黙が訛り/御霊だけか浮遊する//今とは一体、/何時のことだ」(「何時」全文)
 金堀則夫『ひの石まつり』(思潮社)の作者は、自身の住む交野市の地層深く眠る、古代の製鉄の気配を聴取する。そして無意識から解き放たれる火や風のイメージの激しい動きに、言葉をゆだねていく。「火」、「非」、「否」、「霊」、「陽」といった文字が「ひ」という音で響き合い、イメージが超現実的に重なり合うと、歴史の闇に亀裂が入り原始と今が結ばれていく。
「亀の甲骨が焼かれ/あらわれるひびの模様/古代のうらな卜いの文字となって/吉凶のキョウのひびをみちびいている」「自然とのあらそい/ひととのあらそい/非道のみちもかわらず走っている/非と兆は似ている/排する 挑む/兆のみち/そこから逃げる/非のみちは非道となって/むごたらしい/ひとのみちではない/ひそむ 非を囲う罪/背負う ふ/先代のきぼく亀卜(きぼく)が今も生きている兆し/割れ目が刻まれている/背を見せて逃げていく/おまえの敗北/背骨のひび 原始も 今も/キョウがひびき合っている」(「今日(きょう)」)

『現代詩手帖』12月号・論考「詩という一輪の鋼の花」

現代詩手帖』12月号には、一年の展望という趣旨で、論考「詩という一輪の鋼の花」を書きました。この「鋼の花」は石原吉郎の詩「花であること」からのイメージ。神品氏との対談でも出た木島の「断絶」と、石原の「断念」は、戦後もコロナ禍の今も、詩が身を起こすための根源的な力学でしょう。f:id:shikukan:20201228154331j:image

『詩と思想』1・2月号 詩人木島始をめぐる神品芳夫氏との対談

詩と思想』1・2月号で、戦後詩誌グループ『列島』の代表的詩人木島始をめぐって、詩人・独文学者の神品芳夫氏とメール対談しています。神品氏は『木島始論』を上梓され、私は黒田喜夫論を書く際に、木島さんを「再発見」しました。この遊撃的社会派詩人の詩と平和への熱情が伝わりますように。

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詩論集『「毒虫」詩論序説』書評⑨

図書新聞3470号(11月7日発行)に、宗近真一郎さんが素晴らしい書評を書いて下さいました。

 

宗近さんの論は、その時々のテーマについて書かれた錯綜した諸論を、今この時に現代詩に突きつけられている根本的な問題によって、鋭く刺しつらねています。政治と文学の次元へと繋げたラストが見事です。現代詩を考える上でも非常に重要な観点をいくつも提示していると思います。

 

宗近さんに許可を頂いたので、文章の写真をアップします。多くの人に読んで頂きたいです。

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11月16日付京都新聞朝刊文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 詩は遥かな他者への投壜通信だと言った詩人がいる。至言だが、一方身近な他者も詩の重要なモチーフである。だがそれを詩に描き入れるのは決して易しくはない。小説やエッセイとの違いが問われるからだ。詩でしか見いだせない他者との関係とは何か。
 東川絹子『ぼくの楽園』(編集工房ノア)は、各篇一話完結のいわばコント詩集。起承転結をつけつつ、詩の飛躍や余白の力を巧みに用いることで、他者あるいは他者としての自己をふうわり降臨させる。消える刹那、他者たちは詩の光をいとおしく放つ。
「玄関のドアを開けると/四歳の息子と二歳の娘が待っている/ひとかかえにし
て一気呵成に抱く//子どもたちは成長して/ドアを開けっぱなしにして出て行
った/「さよなら 元気でね」//老いた母が玄関マットに座って待っている/
着物の裾をちぎりながら/肩を抱くたび薄く軽くなっていった//五階から 猫
のミィの鳴き声がする/いそいでエレベーターに乗り 扉が開くと/爪を立てて
跳びかかって来た//「ただいま」/居ないみんなの名を呼びながら/わたしは
 わたしの肋骨を抱いている」(「ただいま」全文)
 細見和之『ほとぼりが冷めるまで』(澪標)は、家族や友人といった他者たちの体温が、言葉の所作からじんわり伝える。独白が吹きさらされず、作者自身の体温が思考と感情を包む。それゆえ社会問題への鋭い眼差しも肉体を持ち、読むこちらの肉体へしっかりと届く。
「眼を閉じていても分かる/そこを通過するとき/ことさら電車の速度がゆるや
かになるから/乗り合わせているのはみんな/生きのびてふたたび通い慣れた者
たちだ//私を運び、私を停止させ、私を殺す/大きなもの、あらがいがたいも
の//何から守っているのか/白い網をかぶせたフェンスに囲われた細長い耕作
地があって/それが滑走路のようにすーっと狭まっていって/見慣れたマンショ
ンの壁がいつも唐突に姿を見せる//(あの秋もきっと収穫はあったのだろう?)
(「JR東西線尼崎駅の手前」全文)
 沢田敏子『一通の配達不能郵便(デツド・レター)がわたしを呼んだ』(編集工房ノア)は、生者と死者の関係を模索する。「想像だにしなかった世界規模の災厄の襲来と伝播に慄きながら、そのさなかに本書を編むための舟を漕ぎ出した。いつのときにも、生ある者たちと、もういなくなった人たちとの間に交わされる〈ことば〉を、いっそう傾聴するようにと念じたこの貧しい書を私の著書の一冊に加えたい。」と「あとがき」に記す作者の関係性への希求は、必然的に「平和の少女像」へも向かった。
「裸足で辛苦の道のりを歩いてきた/少女の踵(かかと)の泥土はすでに/ひとび
とに拭き清められていたが/擦れた皮膚が癒されるまでの/道のりはさらになが
く/ふたつの踵は祖国の地面に/まだ/着地できない/その隣に/象徴の椅子が
一脚/腰を深く折ったままにわたしを誘う。」(「椅子ーーその隣にある」)
 山中従子『やわらかい帽子』(思潮社)は、日常がふいに帽子が凹むように変貌する不安を、幻想譚によって鎮めるかのようだ。そこでは作者自らもまた、柔らかく何かの事物に転身していく。
「ずいぶん/来すぎてしまった/頭上には/開ききった青空が/いつまでも枯れ
ずに咲いている/わたしは/溢れるひかりを浴びて/ひび割れ/たえまなく/透
明な砂をこぼしている/地平線は/砂に変わっていくわたしを/真っすぐ立たせ
てくれる」(「砂時計」全文) 

水田宗子『詩の魅力/詩の領域』(思潮社)

水田宗子さんの新エッセイ集『詩の魅力/詩の領域』(思潮社)は、詩というものの人間にとっての存在理由を、沈黙、深層意識、身体、記憶といった根源的な次元から思考の光を照らして浮かび上がらせた、今非常に重要で興味深い一冊です。

 

私自身、じつはこのところ詩とは精神や思想を超え無意識深くまでに至る、心全体に関係するものだと確信し始めていたので、この水田さんの詩論集の刊行には、シンクロニシティさえ覚えました。

 

さらに驚いたことに、この本の掉尾を飾るのは、私が2007年に紀州・熊野をフィールドワークして書いた詩をまとめた詩集『新鹿』について書かれたエッセイだったのです。しかし私には、ただ自分の詩集が取り上げられたという以上の驚きがありました。

 

というのも、先述したように私が詩を心との関連で捉えようと思ったきっかけが、じつは『新鹿』と『龍神』の2冊の紀州・熊野フィールドワーク詩集の再読(再考)だったからです。

 

なぜもう十年以上前の詩集をあらためて読んでいたのかといえば、来年11月に「わかやま国民文化祭」でこの2冊についての講演をすることになって、その準備を少しずつ始めていたからです。もちろんまだまだ先の話で準備はゆっくりでいいのですが、ふと考えだすとなぜか止まらなくなり、当時の記憶が次々と鮮やかに蘇って来る中で、ついには詩と心の関係にまで思い及んでいた、というわけです。

 

本書での水田さんの詩へのまなざしは、今の私のそれと確実に方向を同じくするものです。こんな風に、心の底へ降りていくように十年以上前の詩集が読まれ、論じられていることに、私は深い喜びと励ましをもらいました。

 

2007年当時は、じつは私は病み上がりで、紀州・熊野に癒されに行ったという側面があったのですが、そこで私はつねに「懐かしさ」を覚え、そのことで癒されていたのでした。それは、中上健次さんという現実には会ったことのない死者の記憶の(記憶の)蘇生から来る「懐かしさ」であると共に、それと同時にもたらされた、いつしか見失っていた自然や人間、そして自分自身の命の輝きの回復による「懐かしさ」だったのだと、このエッセイを読みながらはっきりと見えて来ました。

 

本書は、様々な書き手の詩を丹念に根源的に論じた九つの章から成り立っています。そこから、表層から根源へと解き放たれた詩の命が、今この時に、懐かしくざわめいて来るようです。

 

「失われた者は、死者も、忘れられていく。それは記憶が薄れていくことであり、記憶のインパクト/衝撃が消えていくことなのだ。詩人はその記憶の蘇りの衝撃を求めて旅をする。それは記憶の刻印を残す場所や土地、風景があるからだ。たとえば芭蕉の旅にしても、それは文学的故人を忍ぶのではなくて、自分の中の『記憶のある場所』を蘇らせるための内的な旅なのだ。」


「河津聖恵の紀州への旅は、作家がいた場所、作品からこぼれていったものが堆積している風景に自分も立つことによって、より深い記憶をたぐり寄せ、内面の痕跡にもう一度向かい合うだけではなく、それを『今』というときに立つ自らの内面にさらに強く刻みつけるための内的な旅であるだろう。」


紀州・熊野の「懐かしさ」とは、記憶の(記憶の)痛みでもあったー。本書を読むことから私自身にも新たな詩論が始まる予感がします。

 

今という混迷の時に、詩と根源的に向き合い直すための最上の一書です。

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