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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2021年3月1日京都新聞文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 東日本大震災からもうすぐ十年。あらためて、年月の経過が掠りもしない時間の外の出来事だったと思う。大津波は「そこ」に今も押し寄せる。蘇る破壊と叫喚に目と耳は凍りつく。あの時詩を書く意識の底にひらいた深淵は、言葉の瓦礫を浮遊させつつ決して閉ざされることはない。
 武子和幸『モイライの眼差し』(土曜美術社出版販売)の作者は、「戦争の厳しい幼児体験を記憶の深いところに持っている世代」。本詩集は、戦争による心の傷の深みをとおし大震災・原発事故と向き合う緊張感に満ちる。言葉はギリシア神話(「モイライ」は運命を司る女神)や黙示録などのイメージを巧みに駆使して、個の記憶からさらに神話的な深淵へ向かう。例えば被災地の実相と荒蝦夷(あらえみし)の歴史を重ねる詩「編上げ靴」は、警戒区域を思わせる時空に排除されたままの死者の姿を突きつける。かれらは今も「そこ」にいる。生と死のはざま、どこかアウシュヴィッツの空も遥かに映り込む「沼」に靴のように打ち捨てられて。
「編上げ靴が泥の中に転がっている 潰れた踵を半ば泥に埋め 先端はめくり上がり 暗い口を開けている 厚手の靴下の爪先の破れ目から 血の滲んだ頑丈な指が見える ふとそんな気がする 所有者がどのような運命を辿ったかを問うても 靴は黙ったままだ 見渡すと 枯れた葦がそよぎ 足音のような音を立てている 靴だけが つまらない日常のさらに下層から めくれあがった靴先を空にむけてころがっている 埋め立てられる湿地の蟾蜍のように 目に見えない恐怖に戦きながら 鼻先を泥の中から覗かせている」「空がうっすらと明るむと 暗闇のなかから浮かび上がる編上げ靴の めくれ上がった苦しげな形状は やがてまばゆい太陽に焼かれ 乾いた泥につかりながら悲しみの目を大きく見開いてこちらを睨んでいる俘囚の首のようにも見えるとき 埋め立てられ地層の一部になってしまった夥しい記憶がにわかに騒ぎだし ただ送電線が風に唸り 鉄塔の
列が おのれの長く伸びた影のほうへ傾きながら地平へ続くだけの風景の中で 捨て去られた編上げ靴は 蟾蜍のように叫喚を上げずにはいられない」
 服部誕『そこはまだ第四紀砂岩層』(書肆山田)の作者は戦後生まれ。だが深層意識は、二つの大震災の記憶によって砂岩層のように崩落しつづけている。作者の円熟した構成力が、崩落から生まれる幻想を不思議で豊かな詩世界へ膨らませていく。
「大津波のあと墓地は高台に移されることになった/古墳丘と目されるこんもりとした丘の上/復旧した港から望む伐採されたむきだしの山肌は/亡くなった女たちのゆたかな乳房のかたち//三角測量はふもとからはじめられた/三角形の一辺と二角が分かると残りの一点の位置が確定する/確定した地点からまた別の地点を定めてすこしずつ高さを稼いでゆくと/目には見えない編み目模様の三角形群が丘全体にのびひろがる」「豊饒な海の幸をすなど漁りつづけて暮らしを紡いできたこの町の/ながい時を越えて日々繕われてきた大きな網のように/丘い
っぱいに佇立する御影石の林をまも衛っている」(「丘の上の墓」)
 紫野京子『霧の馬』(編集工房ノア)も二つの大震災への鎮魂を込める。私たちが見た光景は旧約聖書の災厄にも等しい。ヨブのような祈りと沈黙に支えられた言葉が待たれている。
「ひとの哀しみを 自らの哀しみとして/共に生きること//雪が降る 雪が降る/ひとのいのちと おもいをつつんで/あの日も 今も」(「雪」)

2021年1月18日京都新聞「詩歌の本棚・新刊評」

人の意識は今、途方もない不安に揺らいでいるようだ。無意識もまた立ち騒いでいるのではないか。一方詩は「天から降りてくる」とも言うように、無意識を感受して生まれる。この不安な時代から新たな詩が生まれないとも限らない。夢、幻想、トラウマなどの在処である無意識は、詩にとって恐ろしくも甘美な母胎でありうるのだ。今詩と無意識の関係はどうなっているだろう。
 一色真理『幻力』(モノクローム・プロジェクト)は言葉と無意識をめぐる詩集だ。幼年期に閉じこもったままの死児を思わせる「ぼく」が、根源的な存在の不安を語り続ける。父母への愛憎、大人になる時間の不気味さが、底なし沼のように渦巻いていく。世界は邪悪な無意識に浸され、破局へ向かって軋む。だがそのどこか片隅で言葉は安らかに眠る。言葉を求める者の最後の希望として。
「もうことばは絶滅してしまったと言う人もいる。/いや、死んでしまったのはことばではない。/ことばを見つけることのできる人がいなくなっただけだ。//ぼくやきみはその最後の生き残りかもしれない。」「〈顔のない盲目の反向日葵はいつも真夜中の太陽の方を向いて咲く。/〈深夜、闇より黒い巨大な目が恍惚と見開かれるとき/〈反向日葵は昼間見失った自分の顔を取り戻すという。//〈きみがいつも夜遅くまで起きているのはそのためだ。/けれど、今夜も真夜中の太陽は昇らず、反向日葵も顔のないまま/〈きみは古ぼけた詩集のページをめくり続ける//――暗喩の中に生き残ったことばが眠っているかもしれないから」「約束してほしい。/もし生きていることばを見つけても起こさないで/そのまま立ち去ってくれないだろうか。//――ことばは眠っていてさえ、美しいのだから」(「暗喩」)
 為平澪『生きた亡者』(同)は、生と死の境界で危うく生きる「私」と、死してなお「私」の無意識に生き続ける親族たちが繰り広げる、不穏で切ない悲喜劇を描く。意識と無意識の境界で都市の時空は土俗性をまとい、死者の気配が立ち込め物も生命をおびる。過去は今に浸透し、今は何時でもない不穏な時間になる。
「死んだ父が/殺された、という/名札をつけて立っている//その横をコンビニ袋に/かつ丼を入れた男が/実存の靴を鳴らして歩く//蛍光灯の下で/頭だけ照らされた女が/命について考えると/部屋には沈黙が訛り/御霊だけか浮遊する//今とは一体、/何時のことだ」(「何時」全文)
 金堀則夫『ひの石まつり』(思潮社)の作者は、自身の住む交野市の地層深く眠る、古代の製鉄の気配を聴取する。そして無意識から解き放たれる火や風のイメージの激しい動きに、言葉をゆだねていく。「火」、「非」、「否」、「霊」、「陽」といった文字が「ひ」という音で響き合い、イメージが超現実的に重なり合うと、歴史の闇に亀裂が入り原始と今が結ばれていく。
「亀の甲骨が焼かれ/あらわれるひびの模様/古代のうらな卜いの文字となって/吉凶のキョウのひびをみちびいている」「自然とのあらそい/ひととのあらそい/非道のみちもかわらず走っている/非と兆は似ている/排する 挑む/兆のみち/そこから逃げる/非のみちは非道となって/むごたらしい/ひとのみちではない/ひそむ 非を囲う罪/背負う ふ/先代のきぼく亀卜(きぼく)が今も生きている兆し/割れ目が刻まれている/背を見せて逃げていく/おまえの敗北/背骨のひび 原始も 今も/キョウがひびき合っている」(「今日(きょう)」)

『現代詩手帖』12月号・論考「詩という一輪の鋼の花」

現代詩手帖』12月号には、一年の展望という趣旨で、論考「詩という一輪の鋼の花」を書きました。この「鋼の花」は石原吉郎の詩「花であること」からのイメージ。神品氏との対談でも出た木島の「断絶」と、石原の「断念」は、戦後もコロナ禍の今も、詩が身を起こすための根源的な力学でしょう。f:id:shikukan:20201228154331j:image

『詩と思想』1・2月号 詩人木島始をめぐる神品芳夫氏との対談

詩と思想』1・2月号で、戦後詩誌グループ『列島』の代表的詩人木島始をめぐって、詩人・独文学者の神品芳夫氏とメール対談しています。神品氏は『木島始論』を上梓され、私は黒田喜夫論を書く際に、木島さんを「再発見」しました。この遊撃的社会派詩人の詩と平和への熱情が伝わりますように。

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詩論集『「毒虫」詩論序説』書評⑨

図書新聞3470号(11月7日発行)に、宗近真一郎さんが素晴らしい書評を書いて下さいました。

 

宗近さんの論は、その時々のテーマについて書かれた錯綜した諸論を、今この時に現代詩に突きつけられている根本的な問題によって、鋭く刺しつらねています。政治と文学の次元へと繋げたラストが見事です。現代詩を考える上でも非常に重要な観点をいくつも提示していると思います。

 

宗近さんに許可を頂いたので、文章の写真をアップします。多くの人に読んで頂きたいです。

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11月16日付京都新聞朝刊文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 詩は遥かな他者への投壜通信だと言った詩人がいる。至言だが、一方身近な他者も詩の重要なモチーフである。だがそれを詩に描き入れるのは決して易しくはない。小説やエッセイとの違いが問われるからだ。詩でしか見いだせない他者との関係とは何か。
 東川絹子『ぼくの楽園』(編集工房ノア)は、各篇一話完結のいわばコント詩集。起承転結をつけつつ、詩の飛躍や余白の力を巧みに用いることで、他者あるいは他者としての自己をふうわり降臨させる。消える刹那、他者たちは詩の光をいとおしく放つ。
「玄関のドアを開けると/四歳の息子と二歳の娘が待っている/ひとかかえにし
て一気呵成に抱く//子どもたちは成長して/ドアを開けっぱなしにして出て行
った/「さよなら 元気でね」//老いた母が玄関マットに座って待っている/
着物の裾をちぎりながら/肩を抱くたび薄く軽くなっていった//五階から 猫
のミィの鳴き声がする/いそいでエレベーターに乗り 扉が開くと/爪を立てて
跳びかかって来た//「ただいま」/居ないみんなの名を呼びながら/わたしは
 わたしの肋骨を抱いている」(「ただいま」全文)
 細見和之『ほとぼりが冷めるまで』(澪標)は、家族や友人といった他者たちの体温が、言葉の所作からじんわり伝える。独白が吹きさらされず、作者自身の体温が思考と感情を包む。それゆえ社会問題への鋭い眼差しも肉体を持ち、読むこちらの肉体へしっかりと届く。
「眼を閉じていても分かる/そこを通過するとき/ことさら電車の速度がゆるや
かになるから/乗り合わせているのはみんな/生きのびてふたたび通い慣れた者
たちだ//私を運び、私を停止させ、私を殺す/大きなもの、あらがいがたいも
の//何から守っているのか/白い網をかぶせたフェンスに囲われた細長い耕作
地があって/それが滑走路のようにすーっと狭まっていって/見慣れたマンショ
ンの壁がいつも唐突に姿を見せる//(あの秋もきっと収穫はあったのだろう?)
(「JR東西線尼崎駅の手前」全文)
 沢田敏子『一通の配達不能郵便(デツド・レター)がわたしを呼んだ』(編集工房ノア)は、生者と死者の関係を模索する。「想像だにしなかった世界規模の災厄の襲来と伝播に慄きながら、そのさなかに本書を編むための舟を漕ぎ出した。いつのときにも、生ある者たちと、もういなくなった人たちとの間に交わされる〈ことば〉を、いっそう傾聴するようにと念じたこの貧しい書を私の著書の一冊に加えたい。」と「あとがき」に記す作者の関係性への希求は、必然的に「平和の少女像」へも向かった。
「裸足で辛苦の道のりを歩いてきた/少女の踵(かかと)の泥土はすでに/ひとび
とに拭き清められていたが/擦れた皮膚が癒されるまでの/道のりはさらになが
く/ふたつの踵は祖国の地面に/まだ/着地できない/その隣に/象徴の椅子が
一脚/腰を深く折ったままにわたしを誘う。」(「椅子ーーその隣にある」)
 山中従子『やわらかい帽子』(思潮社)は、日常がふいに帽子が凹むように変貌する不安を、幻想譚によって鎮めるかのようだ。そこでは作者自らもまた、柔らかく何かの事物に転身していく。
「ずいぶん/来すぎてしまった/頭上には/開ききった青空が/いつまでも枯れ
ずに咲いている/わたしは/溢れるひかりを浴びて/ひび割れ/たえまなく/透
明な砂をこぼしている/地平線は/砂に変わっていくわたしを/真っすぐ立たせ
てくれる」(「砂時計」全文)