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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2022年5月2日付京都新聞「詩歌の本棚・新刊評」

 今、戦争の殺伐とした空気が世界を席巻している。片隅で書かれる詩にもそれは及んでくる。どんなテーマや手法で書こうと、あるいは戦争からいかに離れようとしても、危機感や不安感はどこかに翳を落とす。一方詩の読みも変化せざるを得ない。今発表される詩を読む時、おのずと戦争を超える言葉の可能性を求め、まなざしが熱を帯びているのに気づく。だが詩とは熱いものではない。ふいに熱を冷ますように現れるのだ。熱があるからこそ分かる凛とした冷たさで。
 淺山泰美『ノクターンのかなたに』(コールサック社)は、第一詩集から四十年目に上梓。「詩によってめぐり逢うことのできたすべての人々」への思いを言葉に結晶化した。詩の舞台は根源的な風景へと焼き直された記憶の時空。誰もいないのに誰もがいる不思議な世界はまさに、「永遠に/行き着くことのない場所」を今ここに写し込む銀板写真だ。凛と美しい言葉は、亡き父母と3.11の死者を超え、今の戦争による死者にまで及ぶように思う。
「母は川のほとりにいて/なにかを待っているのだった//夜になると あきらめて/灯の点る家に帰っていった//夢とうつつの水際に いつも/白い芙蓉の花が咲いていて/手折ろうとするたび/指が顫えた//やがて その花も散り/ひとり 夜をのせて/櫂のない小舟で川を下る/舳先を丹(に)色の月に向け/去年の螢の後を追い/きのうから/さらにとおいきのうへ/まだ見ぬ春が眠るほうへと/下りつづけてゆく」(「夜の小舟」全文)
 山本育夫『HANAJI 花児1984-2019』(思潮社)は、言葉の物質性とアート性をからませ世界の実相を突きつける。事物は言葉であり、言葉の飽和する世界は空虚である、その世界大の空虚からこそ戦争に至るまでの暴力が生まれるー本詩集からはそうした世界観が読み取れる。だが作者は決して絶望していない。むしろ止めどなく生み出される世界の暴力性を、言葉の前衛性として奪い返す。本詩集の言葉たちが戦争を止めることはないが、「かれら」は密かな回路で現実に関わろうと身じろいでいる。
「ギギギィ、ッ、と、グワッワッワッと。しょうがないわ、これは、パチリパチリ、バチパチパチ、 決めなければね、来てしまったのかも知れません、カガマナケレバ、通れない、言葉ジャリ道、いるわいるわ、ウッジャウッジャウッハウッハ、これでもかこれでもか、言葉ッシャワー、ワッハワッハ、泳ぎ切れるかなーっ、池言葉、やっとのことで、対岸を行く、私、を、見つける、見果てぬ私だ、見つけられない、私だーッ、ッホオーイ、ッホオーイ、ッッホホホーイ、あげながら声を、声を、あげていながら、聞こえない、声を、歩いていくのは、ぼにゃり、ぼにゃり、ぼんやり、私に違いないのだ、ッボニャリ、ッボニャリ、届くはずかない、」(「見つける」全文)
 有吉篤夫『神への愁い』(洛西書院) の言葉は、自然と情動が共振する境を繊細に描きだそうとする。
「道路に緑の風が注いでいる/吹き上げる初夏の風/俺は/時の中の一瞬を歩く/哀しい程の感情の堆積が/人を明るくさせるのか/樹木は若い木を繁らせ/命の姿を俺の前に現している/叫ぶこともなく/ただ狂が紙一重の差で/和んでいる/水のように/島は今/ざわめく/遠ざかる現実/古の伝説の地に/メディアの現在が/襲っている緑の季節/城塞は崩れ/歴史と人が/ムの黒い顔を覗かせる/そよいでいる樹木の葉は/俺の肉体のどこを揺らすのだろう/斜めになっていく体の中心は?」(「初夏」全文)

2022年3月21日付京都新聞「詩歌の本棚・新刊評」

 三月二十九日は詩人立原道造の命日。かつて明けないコロナ禍に絶望感を覚えだした頃、ふと再読した立原の言葉に救われた思いがしたのを覚えている。特に死の直前詩人として生き直すために、病を押して出た旅の中で記された「長崎紀行」は今も眩しい。結核と戦争の絶望から生み出された珠玉の言葉たちは、まさに今を生きる者のために輝いているかのようだ。
 神原芳之『流転』(七月堂)の作者は一九三一年生まれ。大阪で戦災に遭い敗戦を迎え、戦後は立原も愛したリルケを始めとする独文学の研究者となる。本詩集の各詩は、無駄のない透明感ある言葉で、テーマを明確に浮かび上がらせる。の凛とした輪郭を支えているのは、文学者としての言葉の経験と戦争体験者としての反戦の姿勢だろう。
 建築家でもあった立原の設計図を元に建てられた小屋が埼玉にある。数年前私も訪れたが、まさに詩作の孤独にふさわしい美しい空間だった。その名は「ヒヤシンスハウス」という。
「上空から眺めていると/沼のほとりに立つの屋根に/目印のような記号が/青く光っていた/のちにその地点に行ってみると/小屋と見えたのは 木造の/別荘風の小住宅だったが 屋根に/青い印などあるはずもなかった/入口も窓も開け放しで/だれでも好きに入ることができるのに/屋内は少しも荒らされていない/そこには どうやら/地上とは別の時間が流れている/宇宙を巡回している霊たちが/ときおり立ち寄っては/必要な世話をするらしい/この世と霊の世界との美しい共鳴がある/青い印が光っているときには/設計者本人の霊が訪れている/彼はいつも窓を開け放って/沼のほうを眺め渡していて/思うことはいつも同じ/(辿り行きしは 雲よりも/はかなくて すべては夢にまぎれぬ)*/けれども夢は のちの世を生きる人々の胸で/とりどりの樹木となって繁って
いる」(「ヒヤシンスハウス」全文、*は立原道造の詩「南国の空青けれど」より)
 井上嘉明『背嚢』(編集工房ノア)の詩の多くは、事物の感覚に戦争の記憶を喚起されて始まる。切り詰められた詩行が、じりじりと匍匐前進するかのようだ。作者は、戦争が社会や人間や文化を破壊し物質に還元するものだという痛覚を、少年時に身体で知ったのだろう。敗戦もまた歯茎の痛みから立ち現れるのだ。
「自分の力を試すように/ものを噛むくせがついていた/酷使した歯は/増える一方の虫歯とあいまって/禿びてしまった/その数も減っている//歯茎をつたって/耳の底から聞こえてくるものがある/戦争に負けて/にわかに流れ出した/ラジオの英会話 軽快なソング/「狸囃子」が早化けしていた/カム カム エーブリボディ/調子につられて/毎日 噛む訓練を始めた/知らない時代にむかい/どんな咀嚼の方法があったのだろう//歯ぎしりと断念と/そして 希望は たいていの場合/前後してやってくることを知るのは/何年も経ってからだ
った」(「噛む2」)
 服部誕(はじめ)『息の重さあるいはコトバ五態』(書肆山田)は、事物を緻密かつ詩的に描写しつつ、時間という抽象的なものが錯綜するありさまを描く。それぞれの生の時間が交わることは難しい。ましてや戦争へのまなざしが大きくことなる男と女の時間は。
「さあ男よ 勇気を出してこうべ首をめぐらそう/ゆっくりと横をむき/女が見ているものを見てみよう/まだだれも知らない永遠というものを」(「女たちのいる風景」) 

美しく悲しい詩

ウクライナといえばこの詩を思い出す。あまりにも美しく悲しい詩です。今このとき、さらに。

 

(無題)

     パウル・ツェラン(中村朝子訳)

 

ハコヤナギよ、お前の葉が暗闇のなかを 白く見つめている。
ぼくの母の髪は 決して 白く ならなかった。

タンポポよ、こんなにも緑だ ウクライナは。
ぼくの金髪の母は 帰って来なかった。

雨雲よ、お前は 泉のほとりで ためらっているのか?
ぼくのひそやかな母は 皆のために 泣いている。

丸い星よ。お前は 金色のリボンを結ぶ。
ぼくの母の心臓は 鉛で 傷ついた。

樫の扉よ、誰が お前を 蝶番から 外したのか?
ぼくの優しい母は 来られない。

            (以上全文)

 

ツェランルーマニア王国・ブコヴィーナ地方の首府チェルノヴィッツ(現・ウクライナ)生まれの、ユダヤ人詩人。チェルノヴィッツ は1941年にナチスが占領、ツェランの両親は1942年強制収容所で死亡。父はチフス、母は頸を撃ち抜かれた。ツェラン自身も、戦後も密かに続くユダヤ人迫害に苦しみ、49歳の1970年、セーヌ川に身を投げて亡くなりました。

新詩集『綵歌』が刊行されました

 若冲をテーマとする連作詩集『綵歌』が、ふらんす堂より刊行されました。刊行日は2月8日、若冲の誕生日(旧暦)です。 

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 本書に収めたのは、2006年から5年半をかけて書き継いだ30篇と、各篇について図版付きの解説、そして理解の補助としての略年譜です。詩集としては異例の構成と内容になっています。

 総頁数は191頁で、通常の詩集の倍近くとなりますが、ソフトカバーで軽やかに仕上げられています。装丁もとても繊細です。こまかく煌めく紙のカバーと帯が、詩と解説をひとつのものとして包む美しい衣装のようです。

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本体にも扉にも若冲の鶏がいます。

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 詩は、30篇のうち25篇は若冲の絵を、残り5篇は若冲の生涯の出来事などをモチーフとしています。目次は次のようです。

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 解説はこんな感じです。図版はモノクロで小さいですが、詩の参考とするには十分かと思います。

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 なぜ若冲について書き続けたのか。その動因については、本書の解説に語り尽くしていますが、あらためて言えばそれは、私自身にある欠如や衰弱が若冲を求めさせたからだと思います。つまり私の弱まろうとする生命が、若冲の獣たちの「神気」とも呼ばれる鮮やかな生命力を求めていた。そしてその生命力への感動は、詩によってオマージュとして表現されなければならなかったのだ、と。

 30篇という数も、若冲の代表作である「動植綵絵」が30幅であることへの、オマージュを意図しています。もちろんタイトルの「綵」の字もそうです。

 けれど若冲も、自分自身が生命を謳歌していたから、動植物の「神気」を描くことができたのでは恐らくないでしょう。むしろ死の不安や死の欲望に危うく晒されていたからこそ、全身で「神気」を求めた結果、それが絵に写し取られたのだと思います。そして言ってみれば、その若冲の「矛盾」こそが本書の底に潜むテーマです。

 18世紀という時代の大きな転換期を迎えた京都という時空は、私が生きる21世紀という今の時空と、不思議に浸透し合うように思えます。私は歴史の知識に明るくはないですが、時空が浸透する不思議な感覚ならば、詩で生捕りに出来るのではないかと思いました。またそれは世紀を超えて、絵師と同じ不安と喜びを分かち合うことでもあった、と言えるでしょう。

 多くの方に詩となった若冲に出会っていただきたいです。定価は2750円(税込)です。


 

 


 

 

2022年2月7日付京都新聞朝刊文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 詩の言葉はふいにあふれだすものだ。日常の奥底で密かに熟成されてきた言葉が、やがてふさわしいテーマに行き当たる。その時、詩は解放されるように生まれる。「私」が「私たち」となるための地平が見えてきて、言葉は彼方へとあふれる。
 浦歌無子『光る背骨』(七月堂)は、フリーダ・カーロ伊藤野枝など、自らの愛と意志を貫いた五人の女性の魂を詩の力で蘇らせた。資料の読み込みと深い共感を元手とする筆致はたしかだ。五人の横顔がいきいきと浮かび上がる。聞こえてくる彼女たちの真率な声は、他者の魂に触発された作者自身の魂の声でもある。声は唱和し真実の地平を今ここに現出させる。
「野枝と呼ぶあなたの鋭い眼光に/わたしはじゃぶじゃぶ洗われた/海の波はぴたりと止まり/火の玉のような月がじゅうじゅう音を立てて/海から空へと昇っていった/わたしたちを祝福してくれたのは奈落だけだったが/いっこうにかまわなかった/わたしがわたしを生きるのには/誰の賞賛もいらない/鎖は断ち切られ/わたしはわたしの亡骸を海に捨てた」
「鎖骨のひとかけらは/果てしなく広がる海と等しい/泡立ち渦巻きわたしたちは吠える/運命の縄に捕らえられたとき/真実燃える薪となって/あなたの死は燃えるだろう/わたしの死も燃えるだろう/死してなお燃える眼球があなただ/死してなお燃える脳髄がわたしだ」(「大杉栄へーそのときあなたはもっとも生きる」)
 小林坩堝『小松川叙景』(共和国)が見出した地平は荒涼とした「重化学工業の夢の跡地」。高度成長時代の「未来の墓標」として巨大団地が立ち並ぶそこでは、死者の密かな意志のように汚染物質が今も滲出し続ける。作者は不都合な過去を偽装する現在という時空で、「戦後でも戦前でもなくひたすらの事後である肉体」を一人踊らせる。それは孤独な舞踏でありながら、「わたくしからわれわれを回復する為め」の人知れぬ戦いでもあり、隘路から詩のあふれる「瞬間の自由」を獲得するための儀式でもある。
「わたしは深夜の寝室で踊る/戦後でも戦前でもなくひたすらの事後である肉体/を瞬時の自由に放り出す//ーーおれを独りにしてくれ その為めに/ーーおれを輪に加えてくれ/おまえを おまえたちを 抱きしめさせてくれ//長く生きる者がのさばるこの国で/踊りは祈り/暴発する欲望(われわれ)だ/閉ざした遮光カーテンのむこう/いま街区はしずか/春の眩暈に足をとられたなら/せめておのれの温度を護れ/地面に寝転び底抜けであれ/無人のなかに人の在ることを/風吹き抜ける不条理を/ゆめゆめ忘れるな/誰か(かれ)の奪われたあしたがやがて来る」(「三月」全文)
 角野裕美『ちゃうんちゃいます?』(土曜美術社出版販売)の作者は大阪生まれの大阪育ち。「〝想い〟を強くのせられる」大阪弁で書かれた作品に惹かれる。「ちゃうんちゃいます?」「歯ぁ、が。」「かなんな」と題する詩もある。全体に日常のざわめきが満ちるが、詩「『あんたなんか産むんじゃなかった』というささやき」では大雨の日、レジの店員が不意に手招きし、「わたし」の耳元で親から吐かれた暴言を囁く。「わたし」の動揺は詩の終わりまで収まらない。「運転席についても/ずくずくの気持ちが乾くまで/エンジンを直ぐには/掛けることはない」。激しい雨音と警報のアナウンスもあいまって、「ずくずく」というずぶ濡れを表す擬態語が不安をかき立てる。この不穏な世界からやがてどんな地平が見えてくるのか。

 

 

 

新詩集『綵歌』刊行のお知らせ

新詩集『綵歌』がふらんす堂から刊行されます。

刊行日は若冲生誕の2月8日。発売日は奇しくももバレンタインデー。五年半かけて試みた詩による若冲へのオマージュです。若冲の代表連作に「動植綵絵」がありますが、そこに収められた絵が30幅であったことに私なりの敬意を表して、30篇の連作を書きました。若冲の絵をモチーフとする詩は25篇。「動植綵絵」以外でも私が詩を触発された絵が含まれます。残り5篇は若冲の生き様や時代をテーマとしたもの。若冲は40歳で家督を次弟にゆずり隠遁したことが知られていますが、それは現実から逃避する道を選んだことではありませんでした。この絵師にとって隠遁はむしろ、実存の葛藤や理不尽な権力への怒りを、率直に行動にうつす魂の純粋さをはぐくむ揺籃となったのです。この詩集ではそのような絵師の姿もえがいています。

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上の写真は部抜き(製本前のサンプル)です。この調子でいけば、刊行日の2月8日は無理でも、発売日の14日には間に合うのではないでしょうか。とても美しい装丁です。ぜひ手に取って、詩となった若冲と出会っていただきたいです。

2021年12月6日京都新聞朝刊文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 人の心は今どんな傷を負い、どんな希望と絶望が明滅しているのか。不可視の痛みが多くの人の心に深まっているのは確かだ。自己の痛みからそれを捉えられるだろうか。痛みもまた心の奥底で共鳴しうる響きを持つとしたら。遥かな他者の痛みを感受するために、言葉をいかにアクチュアルに研ぎ澄ましていけるだろうか。
 藤井雅人『孔雀時計』(土曜美術社出版販売)のテーマは、人間と自然との間にある亀裂、もしくは人間における時間と永遠の相剋がもたらす根源的な痛みだ。作者の文学的素養に裏打ちされた格調高い言葉が、現代の痛みを抉りだす時、時空は遥かな過去と交わっていく。原発事故の影に覆われたこの今に深まる痛みは、やがて末法の痛みとなり、三十三間堂の千体仏に及んでいく。
「仏の海に/たたなわる波//地にのびひろがる/放射線の波//堂宇をうめつくす/千体の仏のしじま//音もなく浸食される/われらの地//無辺際のあわれみは/矩形の壁でくぎられ//とめどない嗚咽は/避難所に閉ざされ//濁世から追いやられ/身をよせあう仏たち//避難者は四散し/記憶は砕けた宝石となって転がり//仏法の滅びに/千のまなざしがおののき//線量計のゆらぎに/凍てついた目が吸いつき//仏の光は/朽ちかけた像からあやうく洩れ//原発建ててはならぬまことを/汚された野と山がことばなく叫ぶ」(「福島原発事故
哀歌―三十三間堂で」全文)
 山本英子『花・深い日傘の』(私家版、近江詩人会などで入手可能)は、この世に居場所のない者たちが抱える様々な傷を、象徴性と肉感性を巧みに交錯させなが描きだす。各作品にはDVなどの事件や自死といった悲劇が暗示されるが、言葉はひたすらまっすぐに命の次元に向き合いつづける。痛みとは命の叫びでもあるという真実。それを作者は詩によって深めていこうとする。一方、性愛の愛おしさと虚しさを、宇宙的な視野で描く次の詩も面白い。
「花嫁は/柩の中//花婿は空を飛ぶ/万の大群で//業花は無音の大河を成し/罪雪は崩落し続け//時は時と無限に交合し時を産み/人類が示準化石となる/億年の彼方/生命生産工場跡を広大な風が行く//かつて存在した/美しい男たち/農夫よ/樵夫よ/漁師よ/そして/猟師よ/鉱夫たちよ//素裸で/花嫁は柩の中//万の花婿は空を飛ぶ/純白の体液をまっすぐに引いて」(「鮫小紋の裏」全文)
 朴八陽『麗水詩抄』(上野都訳、ハンマウム出版)は、植民地下朝鮮では文学者・新聞記者として、解放後は朝鮮民主主義人民共和国の文学者として活動した詩人のアンソロジー。韓国では少しずつ研究が進んでいるようだが、詩人の評価はいまだ南北分断の政治的な影響を免れられないという。植民地時代の朴の作品は確かに抜きがたい鬱屈が漂う。だがそれを突き抜けて、春は必ず訪れるという希望へ向き直る向日性がある。それは、体制を超えて書きつづける強靱さでもあるのだ。
「うたうにはあまりに悲しい事実/百日紅のように真っ赤に咲くことも叶わぬ花を/菊の花のようにいつまでも咲くこと叶わぬ花を/冷たい雨風に打たれ散るか弱い花を/うたうよりは手にして泣くだろう//だが ツツジの花は訪れんとする春の姿を思い描きながら/寒風が吹きすぎる山肌で むしろほほ笑み告げるだろう/「いつまでも永く咲くは 花にあらず/先がけて春を知るのがまこと真の花だ」と。」(「あまりに悲しい事実―春の先駆者 ツツジをうたう」)