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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

10月27日「ならっていいともセミナー」講演フォロー

  昨日奈良人権部落研究所での「ならっていいともセミナー」で、許玉汝さんが「在日コリアンとして生きて」という講演をされました。そのフォローとして私も少し話をしました。そのおおよその内容を以下アップいたします。朝鮮学校の除外反対の活動を始めてから、1年半以上が経ちますが、振り返ればあっという間のようでも、10年位の時が経ったような気持にもなります。

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 私は、『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』を許さんと共同編集しました。その編集がきっかけで交流を重ねることで、許さんのお人柄や民族教育への熱い思い、そして今の話にもあった生い立ちを知ることが出来ました。それは日本人である私にとって、未知なもので大いに感銘を覚えると共に、自分の国、日本の知らなかった姿、歴史を目の当たりにすることでもありました。
 私自身が朝鮮学校の除外反対の活動をするようになった経緯ですが、まず2010年2月26日に、朝鮮学校除外の新聞記事に私は大きなショックを受けました。ちょうどその前に、私は、在日の人々と日本人と一緒に、尹東柱(ユン・ドンジユ)という詩人を偲ぶ会を行ったばかりでした。ちなみにユン・ドンジュは、戦時中に私の住む京都に留学して福岡で殺された詩人です。その会の一環としてその翌日に京都朝鮮中高級学校を見学しました。そこで日本と朝鮮の架け橋となろうとして、一生懸命に学ぶ生徒の姿、そして先生と生徒との親密な信頼関係を見て、大変感銘を受けたばかりでしたので、除外のニュースは本当にショックでした。けれどその後世間、とりわけネットの世界から声高に聞こえてきたのは、傷ついている筈の生徒たちの痛みに、想像力によって寄り添う人間らしい言葉ではなく、むしろ傷をさらにえぐるかのような誹謗中傷でした。さら新聞がそうした誹謗中傷を煽ったり、さらに大阪府橋下知事が暴言を吐いたりして、生徒たちは結局社会のトップのからも、ネットという下の方からも、言葉の暴力を受けることになってしまいました。私はその社会全体の言葉の暴力に対して、やはり詩人としても黙って見ていられないと思いました。それは先ほどの許さんの話にもあったように、この問題を自分自身、さらには日本人自身の問題として痛感したからです。つまりこのように人の痛みに想像力が働かず、あるいは痛みが分かっているからこそあえて言葉の暴力をふるう、そういう社会を放置していけば、それは在日コリアンだけでなく、日本人自身を追いつめていくと思いました。つまり言葉の暴力は、日本のモラルや精神のあり方をみずから貶めていくと思います。何よりも、詩人として言葉を扱う自分が、言葉が人を傷つける凶器となっている現状を、見逃すわけにはいかないと思いました。むしろ、言葉は本来は人間を根本で正しい方向に向けていくモラルの力や、あるいは人間を本当の自由へと解き放つ詩的な力を持っていると思います。だから、その逆の方向で使う人に対して、ノーを突き付けたいと思ったのが、反対の一番の動機でした。
 『アンソロジー』についての経緯は、先ほどのお話で許さんに十分語っていだたいたと思いますので、私は繰り返しませんが、ここで、朝鮮学校を知って在日朝鮮人と交流することで、何が自分の中で変わっていったのかを簡単に述べたいと思います。
 私は東京の渋谷で生まれ、2才の時に東京の郊外にある国立という新興都市で育ちました。新しい町である環境もあって、在日と言われる人々との出会いが殆どありませんでした。唯一、母の友人に日本名を名乗られていた方がいて、その方がなぜ朝鮮人なのに日本の名前なのかをうっすら疑問に持った程度でした。隣町の立川には、朝鮮学校があって、電車のホームで何度かチマチョゴリの制服を見かけたこともあって、このお姉さん達の制服は違うのだと少し思いつつも、すぐに忘れていきました。
 大学入学を機に京都に住むようになったのですが、ただ京都という歴史の古い町にいながらも恥ずかしいことですが、やはり問題意識がなかったということもあって、出会いはありませんでした。私自身文学を学んだり詩を書くことがまず第一ということがあって、日本の現実をよく見るということがなかったという事情もありました。
  在日コリアンと交流のきっかけとなったのは、2009年に、その2年前の2007年に私が書いた詩が、在日の文学者にとりあげられて、朝鮮新報という新聞に掲載されたことでした。その詩は、先ほどのユン・ドンジュに捧げた小さな詩でした。その後、その先生とお会いする機会が生まれました。そしてその先生から、京都に住む甥御さんを紹介していただき、そしてその人を通じて京都の在日コリアンの人々と交流するようになりました。
 正直いうと、私も初めて在日の方々とお話しする時は、やはり緊張しましたし、初めのうちは、在日の方同士で朝鮮語で話す場面では、少し違和感ももちろんありました。やはり自分の中でも、意識しないままこれまでの人生で知らず知らず刷り込まれた日本人中心の価値観があったと気づかされました。それを解くためにはやはりこうした出会いという機会がなければならなかったのだなと痛感します。また一方で、在日の苦しみも知ることとなり、日本の別な姿を見せつけられ、考えさせられました。とりわけ、2010年12月に京都の朝鮮第一初級学校が在特会という右翼集団にびといいやがらせをされた映像を見たときは、本当にショックでした。朝鮮学校の苦しみももちろんですが、とりわけ、一部とは信じたいけれども、これが今の日本人の姿なのだというショックです。そのショックもまた今の活動の原点になっていると思います。しかしやはり、今の私を最も励ましてくれるのは、在日の方々の真剣な生き方に接した経験です。とりわけ今日の許さんの人生や人格を感じ取ることができたというのは、私に大きな力を与えてくれていると思います。
 最後に、詩を読んで終わります。これは、許さんが書いてくれた「共にあゆむ人よ」へのいわば返歌です。許さんと私は生きざまも性格もまったく違います。朝鮮学校の除外問題がなければ、全く出会うこともなかったと思うと大変不思議です。そのようなえにしの不思議さをテーマにした詩です。どうぞ聞いて下さい。

友だち
            すぐ近くまで
           虻の姿をした他者が
           光をまとって飛んできている(吉野弘「生命は」)

                                  
あなたはいつから
私を呼んでいたのだろう

風は花粉の匂いをたしかに運んでいた
海は遠くで輝きをましつづけていた
私は呼ばれていたのか
それとも 私が呼んだのか 
蕾のように長い時をかけ
お互いにむかってうごきつづけていた
「欠如」がたしかにあった 

あの日 ためらいをすて
ハッキョへの坂をのぼろうと決めたとき
雪解け水のような春の光が
きらきらと鳥のさえずりを映し
坂をのぼる私にふりそそいだとき
過去からおりてくるオンニたちや
未来へとのぼるヨドンセンたち
の息づかいと心の高なりが
ゆっくり私の胸にかさなってきた  とき

透明な空気のふくらみのように もう
あなたは共にいてくれたのだ 

それとも もっと、もっとはるかな時に?

三月のいつだったか
当面の除外が決定されて間もない 
眩暈のような永遠の日
私は一人だったのに
もうひとりではなかった
右手には
遠い南のくにの「思いやりの学校」の
クリアファイル百枚がずしりと重く
(その日 この国の品はどれも
 生徒たちへの贈り物にはふさわしくないニセモノとなった)
かざした左手に 光は決して軽くはなかったけれど
つらい眩しさは 
もうひとりではない不思議な予感だった
クリアファイルに描かれた
ゴミ山で生きる子どもたちのクレヨン画
花や虫や果実やひとの笑顔
その未来の重みが掌を明るませて
子どものような勇気が
身の内にしずかに湧いた
風のような何かが 背中を押した
やがて誰もいない校庭から
かすかなざわめきにくすぐられた頬

朝鮮学校無償化除外反対!」
この国でそう声にすることは 
かぎりない孤独と不信と
熱い連帯のはざまで引き裂かれることを意味すると
初めて知ったけれど

真実の痛みが降りてきたからこそ
ほんとうの出会いが熱くたちのぼってきた

新たな透明な時がとくとく空へ飽和して 

初めて会う約束の刻 鶴橋駅
まっすぐ前へ張りつめていたあのまなざしを忘れない
遥かな時の中から
あなたは私を見つけてくれた
遥かな時を経て
私はあなたを見つめはじめた
花と虻のように 虻と花のように 
かつてはぐれた真実の友だちとして

注 ヨドンセン(妹)