先月いわゆる「共謀罪」法が成立した。この法をめぐっては人権侵害の懸念があるとされる。端的にはテロか自由かを突きつける法案だったが、「内心の自由」「表現の自由」の問題は詩にも深く関わるはずだ。なぜなら突きつめれば詩とは、「内心の自由」そのものを「自由に表現」するものだから。詩は今後脅かされていく自由を、どんなテーマと手法で描き、守り、輝かせていけるだろうか。
岩成達也『風の痕跡』(書肆山田)は前半が詩、後半が詩論。信仰と哲学と現実世界の境界で、結晶化し煌めく言葉は難解だが魅惑的だ。難解さだけが実現しうる自由が、暗く輝いている。
「私は廃れた人(ひと) 廃れてはじめて 光のロゴスの一端を担う//空は 決して蒼くはない 異質にして酷薄/光を含む肉(シェール)が それだけが 時の狂気のように降り積もり//暗闇は 光の癩のように蹲る そのように見える/狂気の者よ お前はそこに 癒されることのない蠢く深さを見つめる」(「ミシェル・アンリを讃える」)
「「私(のいのち)」とは、いのちの流れの「私」への到来であり、このようにして、「私」とはいのちの流れの一つの波頭であった。しかし、「波頭」を「波頭」として確立させるもの、それが到来するいのちの流れに密着し凝集する「外皮」としての「肉(シェール)」なのではないか」(『森へ』をめぐって その1)
甘里君香『ロンリーアマテラス』(思潮社)は、関係が壊れ命が貶められる現代における、母と子の葛藤と愛情を描く。女性たちが生きにくさから自己を解放するために著者が設定したのは、「縄文」。つまり自然のリズムのまま人と人が官能的に関わりあい、濃密な時間を生きていた原初の時空だ。そこには自由が欠乏する今だからこそ、幻視される自由の輝きがある。
「波打ち際にいくつも/重なる西の陽は/いのちの区切りと/つながりをおしえる/原初の生きものに還り/区切りと/つながりの際にあそんで/またいのちを贈りだす/あしたも/太陽が真上になる前に/日よみの庭に立ち/あなたを呼んでもいいか/ときみはきく/カモシカの声なら/あえるかもしれない/太陽が真上になる前から/傾くまでのあいだ」(「縄文love」)
有吉篤夫『野に咲く花 あるいは狐花』(洛西書院)では、京都府与謝郡に生きる作者が、「村の過疎の現実」を前に立ち尽くし吹きさらされ、単独者の行く末を虚空に見る。現代の「個」の空虚感に、郷土に生きる一人の「民」の感慨が重なりあう。
「身一つ/寂寥の村で/生きているのが僕だ/光が明るくなった立春/民の一人一人として生きた父母/戦争の傷痕をいやというほど背負い込んで/戦後を生きたが……/不確かな世界が/民としての実在を/幻としてしまうのではと/考えてしまうのだ/父母が無くなってしまうのではと/不安なのだ」(「彼岸」)
中山敬一『生き物図鑑』(愚林工房)は琵琶湖畔の生き物たちがモチーフ。湖の生命と一体化した「鵬(おおとり)―白鬚大明神讃」は力強く印象深い。
「潜望鏡のような鳥居を見つめ/何十年何百年ものいとなみを思う/ときに仕方なく歩き 遣る瀬なく首を垂れても/夢のかけらが曙光に輝かんとするとき/命あらたに生きようとしてきたともがら//背後の比良の山並みは更なる鵬翼である/うつしよに白鬚明神いまします/弥(いや)にこやかに常世ひらさか」
名古きよえ『とこしえ―わがふるさと「知井」』(竹林館)は、美山町知井の歴史と自然の豊かさを、市中の詩人が見つめた随筆集。