#title a:before { content: url("http://www.hatena.ne.jp/users/{shikukan}/profile.gif"); }

河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

書評・中川成美『戦争をよむ』(岩波書店] )(図書新聞3338/2月10日号)

  思えば最近まで、戦争を描いた作品をあらためて手に取ることはなかった。子供の頃は戦争体験者の父が多くの戦記物を買ってくれたし、世間で戦争の記憶が風化しても、両親が亡くなるまでは彼らの存在がおのずと記憶を喚起した。だが彼らの死後、私は戦争を急速に忘れていった。だが気がつけば、すでに濃く立ちこめていた新たな戦争の気配―。あらがうための方途を過去に探るしかないと痛感している。
 本書は、著者にとって「極めて肉感的に戦争に触れた」七十篇を紹介する。「肉感的」とは中野重治がよく使ったそうだが、この書で端的にそれは、戦争と文学の「抜き差しならないほどの共犯関係」を「打ち破っていく」可能性の実感のことだ。あるいは「底の方からグッと押し上げてくるような実感をもって、私の内部に突き刺さってくる」痛覚である。その肉感性という評価軸において、拷問死した小林多喜二と戦争に協力した徳田秋声がこの書で肩を並べる。詩やエッセーなども含めジャンルは多岐に亘る。
 新聞での連載がまとめられている。媒体が要請する簡潔さ、具体性、分かりやすさが、七十篇の「肉感性」の魅力をしっかりと伝える。限られた字数で著者は、作者たちへの敬意をこめつつ、現在の状況をめぐって自身の言葉を読者へ手渡そうとする。それが作者たちの声と一体となり私の心に残った。「その作品の一つ一つに描かれた人間という存在への懐疑を手がかりに、戦争と文学の関係を想像力の拠りどころとして再構成したいというのが、本書を出す最大の理由である。その文学的想像力こそが、今ある思索の困難を照らし出していくことになるであろう」。
 それぞれ十二、三篇前後を収める五章と、終章から成る章立てが示すのは、文学が「戦争に巻き込まれる」あり方と、戦争との「紐帯を断ち切る」力の多様性だ。第一章「戦時風景」では、敵か味方か、市井か兵士かを問わず、人間が見た戦争の風景を集める。「戦争における一日一日の身体と精神の緊張」が個々人の内部に「人間存在への深い洞察」を打ち立てる過程を描いた作品群である。徳田秋声『戦時風景』、野間宏『顔の中の赤い月』、江戸川乱歩防空壕』、原民喜『夏の花』など。第二章「女たちの戦争」は、戦争の被害者でもあり加担者でもある女性が、戦争によってもたらされた「痛苦と虚無」とどう向きあったか、さらにはどう「情愛」を再構築していったかを見る。田村泰次郎『蝗』、高橋たか子『誘惑者』、アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』など。第三章「植民地に起こった戦争は――」は、「征服する側の言葉、征服される側の言葉、そして、その相克のなかで生み出されていった、せめぎ合う言説の現場からの言葉」を集める。吉田知子満州は知らない』、張赫宙『岩本志願兵』、モーナノン『僕らの名前を返せ/燃やせ』など。第四章「周縁に生きる」は、間断なく戦争に身を投じていく近代日本の「周縁に追いやられた人々の姿」を描き、社会矛盾を批判した作品。無産者、在日、沖縄、被爆者、死刑囚。小林多喜二『転形期の人々』、カズオ・イシグロ遠い山なみの光』、安本末子『にあんちゃん』など。第五章「戦争責任を問う」は、「強く戦争への忌避を主張する文学・評論」。ヘミングウェイ『兵士の故郷』、石川淳マルスの歌』、平林たい子『盲中国兵』など。なお新聞連載中、著者は作品の現場となった場所へも旅した。その濃厚な時間も文章に反映する。
 今後憲法改正へと一気に進もうとする国家に癒着する国民を、文学はみずからの「肉感性」の魅力で個々の人間に立ち返らせ、戦争への流れを変えられるか。この本の声たちは口々に叫ぶ。どうか最後まで諦めず、戦争がなぜ生み出されつづけるのかを考えてほしい、と。f:id:shikukan:20180211140638j:image