〈人間〉を生み出す
河津聖恵
侵略戦争や植民地支配の加害責任を、日本人である私が我が身に引き受けて考えることは、辛く難しい。しかし支えとなる言葉がある。「〈人間〉はつねに加害者のなかから生まれる」。石原吉郎がエッセイ「ペシミストの勇気」で述べた鋭い逆説だ。
シベリアの強制収容所で目撃した友人の記憶にもとづく言葉だ。誰もが他人を押しのけなければ生き延びられない状況で、友人はつねに自ら不利な位置を選んだ。そうすることで、自身の加害者性と向き合おうとした。その向き合いこそが、加害者だらけの世界で〈人間〉を放棄させず、むしろ深める力を友人にもたらしたのだ、と。
先日韓国の文大統領は、慰安婦問題について「加害者である日本政府が終わったと言ってはならない」と語った。その言葉と半世紀前の石原の言葉は共鳴する。大統領の言葉は政府だけでなく、国民の一人一人にも向けられている。加害責任と向き合うことが〈人間〉を生み出す―この逆説に打たれなくてはならない。
現代詩で加害責任が話題になることはない。一方短歌はことなる。「現代短歌」3月号で戦後世代の大田美和と江田浩司が連作で加害責任と向き合う。近藤芳美と尹伊桑をモチーフに、韓国の旅の記憶や哲学者の言葉を織り交ぜつつ、歴史や死者の声に応答し歌い継いだ。「うす闇にあらしめし世を傷痕を詩としてうたふ静かなる意志」(江田)、「洗足館(セビヨンガン)のみを残して破壊せり……いつまでも謝るしかないじゃないか」(大田)―。一人称を手放さない短歌の力が、アクチュアルな人間の歌を可能にした。では虚構や非人称に依拠しがちな現代詩はどうか。どんな回り道であっても目指すべきは、〈人間〉の詩である。