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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

映画「万引き家族」を観て

是枝裕和監督「万引き家族」を観ました。予想以上にひきこまれる映画でした。通常の映画が家族や社会や国家という共同体を疑わないで成り立つものだとしたら、この映画は共同体あるいは共同性を無条件に前提としていません。そこがまず良かったです。絆や繋がりと言いつつ、じつは互いを縛る見えないピアノ線みたいなものがこの国には張り巡らされているのですが、それがこの映画の中の空気にはない。聴き取れない台詞や見切れない物がいくつもあったり、登場人物たちの関係にも曖昧なものがあったりするのもとても新鮮だった。通常の映画はストーリーとそれに従うカメラワークで見る者の既視感をなぞりつつ展開しますが、この映画はドキュメンタリーの手法を効果的に取り入れることで、現実と背中合わせの虚構を、スリリングに絶妙に作り上げていると思いました。


あらすじは映画のHPを見ていただければと思いますが、この映画で重要なのはやはりテーマでしょう。社会や家族というこの国の共同体から捨てられた人々が、どうすれば生きていけるのか、寄り合って生きることは出来るだろうか、あるいは全ての人が地縁や血縁を超えて手を伸ばしあい、根源的な関係を模索する時が来ているのではないかーそんなことを問いかけられている気がしました。映画を見終わった今も登場人物たちの眼差しや声や仕草が、やけに生々しく心に残っているのですが、それは私の中にもまた「共同体の外」が広がっているという証なのでしょう。その懐かしい土や雨の匂いのする場所に、映画はまだ続いているように思います。


ところでネットを検索すると、この「家族」が万引きをして生活しているという設定にたいし、違和感を感じる人もいるようです。しかし是枝監督はそうした違和感も十分計算づくでしょう。社会や家族からこぼれ落ち貧困になるのは自己責任。だからその責任を取ろうともせず万引きで暮らす道を選ぶなんてとても許されない、という批判があるのは、残念ですが今の日本では当然といえば当然です。しかし映画の中での弱者の小さな犯罪に対してさえ処罰感情が動くというのは、何かとても異常なことではないでしょうか。映画を見る者としてだけでなく人としても。


この映画はカンヌ映画祭パルムドールを受賞しました。ヨーロッパの観客たちには、捨てられた弱者たちが万引きをして生きるという設定がいかにも日本的に思えたのではないでしょうか。見えない貧困、見て見ぬふりをする貧困という意味で。例えばパリの市場では売れ残り野菜を、希望する人に無償で配ると言います。教会で食べ物を貰えることもあるでしょう。乞食をして暮らしつづける人もいます。


そういえば日本にもかつて「お目こぼし」というものがありました。映画では駄菓子屋のおじさんが、少年が店に来ては万引きするのを知っていながら、ずっと見逃していた。でも「妹」がするのを見た時おじさんは、少年に菓子を渡しながら「妹にはもうさせるなよ」とたしなめます。このおじさんのようなお目こぼしをする大人は、今の世の中にはいません。しかし弱者に対するお目こぼしというものさえなくなった社会は、まるで冷たい結晶体のような非人間的な空間に過ぎないのではないでしょうか。(そういえば「借りぐらしのアリエッティ」というアニメもありましたが、生きるために万引きをする弱者とは、共同体の隅で借りぐらしをしているのだとも言えるでしょう。)


この映画がパルムドールを取ったことは、本当に良かったと思います。そうでなければ、こんなに評判にもならず、上映館も少なく、観ることは出来なかったかも知れません。観て、感じ、考えることもー。