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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

7月16日付京都新聞文化欄「詩歌の本棚・新刊評」

  沖縄全戦没者追悼式で朗読された詩「生きる」が、話題を呼んでいる。作者は中学三年生の相良倫子さん。沖縄の自然のかけがえのない輝きとそこに生きる歓びをうたう、素晴らしい内容と朗読だった。率直に思いを述べたこの詩を、詩として評価するのは難しいかも知れない。だがこの詩には読者に命の歓びを喚起する力が確かにある。「摩文仁の丘の風に吹かれ、/私の命が鳴っている。/過去と現在、未来の共鳴。」(最終連冒頭部分)詩は今、「鳴る」ことを抑圧してはいけないのではないか。

 島すなみ『移動の記憶』(澪標)は、移動がテーマ。「長崎の炭坑の島」に生まれ今は京都に住む作者は、自身の移動の記憶から、二十世紀のアジアで交錯した人々の移動へ想いを馳せる。中国大陸からの「引揚者」だった父母の移動。慰安婦たちの苛酷な移動。そうした「幾重にも交差する」歴史の空間へ作者は詩で向かおうとする。全体に散文的だが面白い試みだ。詩は歴史の「鳴る」場になりうるだろうか。出郷の詩―。

「島を出ることは/たやすいことではない//いま 遠くから振り返ってみると/リアルに感じるのは/下船したときの一歩/何度も通過した桟橋で/ふらついた体ぜんたいではなく/ほんの少し浮き上がった足裏の感触//甲板(かんぱん)に立って溜めこんだ/潮風の時間が/散り散りになることはない/頭は切り替える/どこまで行けるか/試してみようか//五〇年以上経った//陸(おか)に上がっても/船足の頓狂なリズムは手放さない」(「たやすいこと」全)

 名古きよえ『命の帆』(土曜美術社出版販売)は、タイトルの通り「命」がテーマ。戦争を体験し身近に戦死者もいる作者は、今を生きる子や孫の姿に、かけがえのない命の連続と発露を見る。これらの詩の透明感と柔らかさの底には、子や孫そして今ここに生きる作者自身もみな、死者の残していったものなのだという痛切な実感がある。

「おくるみから伝わる/しあわせと/ご飯のような香り/人の手の確かさ」「先にいつかきっと死が待っている/おくるみの幸せが/生きていく途中で忘れられ/暗い時間が垂れこめる時にも/水(みず)垢離(ごり)の記憶は残っている/この世の初めに/綿菓子のような光が射したことを」(「おくるみ」)

 香山雅代『雁の使い』(砂子屋書房)は、人の生きる時空を宇宙に繋がる能舞台のイメージへ昇華し、無数の命の音域を解き放つ。読点のない語間に闇の吐息を巡らせる。全ての命は共振し、深海のような世界の胎内に孕まれている。「余命幾許(いくばく)と告げられた三日間のメモを残して逝く」という注のある詩―。

「――なにになるの と目で問う 少年//ペンを執り 認(したた)める 意志

の鼓動が あたりの空気を 震わせる/生きる 証しなのだから と/涙を隠し  微笑む/沈黙の闇が 零れる//だれのものでもない/生命(いのち)とむきあって ひと文字 ひと文字/未来という渚に/砂粒のように/いま を」(「少年の記した日録(メモ)」)

 村井八郎『童画』(澪標)の作者は元高校・養護学校教諭。子供たちの命を間近で見つめ、自らの命を照らし返されてきた経験が、詩作に生かされている。現代詩というより童詩に近い。詩「シャボン玉(その一)」は、二度と返らない子供時代の純粋さを「シャボン玉」で象徴しているようだ。

「シャボン玉は/人は触れません/木の葉や草の先に/ひっかかっていることはあるけれど/人間の手で触れたら/たちまち消えてしまいます/だから/シャボン玉の表面をまわる/風景は美しいのです」