國重裕『ことばの水底へ』(松籟社)は京都在住の詩人・独文学者のエッセイ集。画家鴨居玲や麻田浩、ドイツの詩人ツェランやリルケ、ロマン派等における自己をめぐる思索を追う。最終章で京都ゆかりの詩人田口義弘、作家山田稔、独文学者野村修が取り上げられるが、特に田口氏を追悼する「海の想い」は印象的だ。氏と作者は海辺の光景をめぐり手紙で語り合う。「我と汝」の対話の次元で、魂の陰翳を共有していく。本書に引用された田口氏の詩「旅の収穫」は、海辺で鳥の死骸を凝視する中で、現実がヴィジョンへ変容するさまを巧みに描いた佳作。詩人は二〇〇二年に亡くなったが、詩は今も鮮やかに生きている。
「けれどあやうくそれを放りあげようとした/この私は見たのだった、いまは骨だけになった/その翼のつけねから細長い根がいく筋ものびていることに、/暗い地中で何かとつながれるための電線さながらに。/ふたたびの昇行のためのふたたびの沈降?……/私は足元に小さな窪地を作って/このみごとなオブジェをそこに横たわらせ、/砂で白くそれを覆っていった/その死骸の変容に私もささやかに協力するために、/秘密をはらむ無言の循環の一点にそれを委ねるために。」
鎌田東二『常世の時軸』(思潮社)は宗教学者の第一詩集。学的経験にもとづく確かな足場から詩の懸崖へ言葉をさらし、常世のヴィジョンを描き出した。言葉を持ったために愛を喪失した「不生不滅」の世界で、「許されぬ闇の希望」として詩は綴られる。海、流星、稲妻、北方、舟、鏡、指、虹、少年の死といったイメージが反復され、ヴィジョンは世界観となり立ち上がる。これは作者の自己救済の詩集でもあるのだろう。
「蛸となって海を見ていた。打ち寄せる波吸い込まれる渦。世界創生の始まりの時軸。凧となって見ていたこの惑星の消滅。譬えようのない美しい爆発繚乱の渦。逃げることのできない存在世界多様消滅。爆風に煽られ燃え上がりながら煩悩即菩提存在即神秘と喚いていた。凧と揚げる声明祝詞真言陀羅尼聖句俳句聖歌を喉切り裂いて詠う宇宙塵の舌にしゃぶられて散逸曼陀羅。いつの間にか昇天しているこの世の果てにいて蛸となって海を見ていた新しい産みの歌を。」(「時の断片22」)
呉屋比呂志『守礼の邦から』(OFFICE KON)の作者は沖縄にルーツを持ち、今は京都に住む。戦後リトル沖縄(大阪市大正区)の運河地帯で幼少期を過ごし、「歴史と伝統の京洛の地」で勤労学生となる。やがて詩作を通し沖縄の歴史と文化、「軍事基地の現状に向き合う」覚悟を持つに至る。本書の詩の多くは散文的だが、沖縄との「魂の奥処の共鳴」が詩性の煌めきを生んでいる。非業の死者たちの最期も、作者の沖縄への募る思いの中でヴィジョンとして蘇った。
「手をさしのべてまぶたを閉じようとすると/強く跳ね返って開かれるおじさんの瞳/―おれは何もかも砕け散ってしまった/おまえが俺のことを語ってくれ/俺は死んではいないのだと//珊瑚礁に砕ける白い波頭/紺碧の海と空遠く/おじさん 今日存命であれば八十八歳//かまぼこ板半分もない小さな位牌/粗末な漆塗りに金泥文字/陸軍兵長とある/おじさん あなたはおれと共に生きています」(「ぼくのおじさん」)
紙幅は尽きたが上手宰『しおり紐のしまい方』(版木舎)にも惹かれた。詩とは「夢の中で自分自身が受けとる」手紙だと作者は言う。リルケを想わせる豊かな孤独と、詩だけがなしうる思索に満ちた詩集だ。