今年の連休はテレビも新聞も改元一色だった。象徴天皇の退位と即位が戦後の一つの節目として話題になった、という以上の騒ぎだった。テレビに映る神を崇めるような人々の表情に不安を覚えた。象徴天皇制が国民主権と共にあることを知らないのだろうか。
『文藝春秋』5月号は退位を記念して「天皇皇后両陛下123人の証言」を特集する。天皇皇后と交流のあった123名の寄稿者が二人の「知られざる素顔」を描いている。美智子妃は詩を愛好し、詩人との交流の機会もあるとのことで、何人か詩人も名を連ねる。著名な詩人たちがエピソードを綴る。長年の交流にもとづき詩の好きな「普通の女性」の姿を伝えたものもある。一方「私たち日本国民はなんという優雅で深切な国母を持ち、皇室を持っていることか」とか「万物の立てる響きにお心をお寄せになる皇后陛下の詩心はとても深い」というように、二人の詩人の賛美に身を委ねる筆致には驚いた。企画自体がそうした態度を引き出しかねない類いのものであり、賛美する詩人たちが揃って1930年代生まれという背景もある。だが現代詩とは、戦前の抒情詩が戦争詩に向かったことへの反省から、詩自身と時代への批評意識を研ぎ澄ますことを存在理由として、出発したのではなかったか。
こんな時代でも、いやこんな時代だからこそ、詩人は自分の思想を持ち、自分自身を刻々と対象化する言葉が必要だ。「倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ」(茨木のり子「倚りかからず」)という決意で、個を否定する空気の中でも凛と背筋を伸ばして書く。それが、忍び寄る美しくも危険な抒情に寄りかからない現代詩の姿勢だ。