かつて現代詩の舞台の多くは、都会としての都市だった。都市の現象や文化が、問題性も含めて現代性の象徴と目されたからだ。都市の孤独を享受する言葉が、輝いて見えた時代も確かにあった。だが今はどうか。
二十年ぶりに詩活動を再開した山本育夫の、『田舎の寂しさ』(つなぐNPOほんほん堂)は、表題通り地方が舞台。作者の住む甲府での日常に身を寄せるように書かれた収録詩は、「毎日詩」と題しSNSで発表されたもの。風景の寂しさと人の温かさの混じりあう「田舎」の空気感を、巧みに詩に映り込ませている。
「家とひととが/くっついておたがいに/なじんでいた/人家ことごとく/死して/ひとも家も/どこかへ行ってしまった/するとそこには/ぽっかりと/空虚がすくってしまう/その空虚を若い人たちが/食べたいという/(ステキだ」(「リノベーション」全文)
持ち主が亡くなった家の跡地にぽっかりと「空虚」が巣食う。若者たちがそこで何かを始めようとする。その動きを「空虚を食べる」と表現したのがいい「ステキだ」の結語がきらめく。言葉をちょっとひねり絶望を希望に変える転換に、技量の高さを感じる。
現代美術家でもある山本は、1980年代言語の物質性を模索する詩で注目された。擬声語が跳ね回る言葉の反乱とも言える詩は、私の記憶にも鮮やかに刻まれているが、「田舎」の静かな空気感を伝える現在の詩は、より深く浸透する物質性がある。
山本は現在、美術を介し地元の市町村をつなぐ活動に携わる。再開した個人誌『博物誌』に書き下ろした詩作品では、地方の空気とアートを紙面で見事に融合させた。
地方とは、「空虚を食べる」力が生まれる言葉の最前線だ。新たな詩の舞台で新たな詩が始まる予感がする。