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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2019年9月16日付京都新聞「詩歌の本棚/新刊評」

  今の時代と一九三〇年代は似ていると言われる。技術や産業の発展、大衆消費社会、不況と格差の拡大、民主主義の機能不全、排他主義と戦争の足音―。最近シュルレアリスム関係の詩書の出版が相次ぐのも、偶然ではないだろう。一九三〇年代に興隆した日本のシュルレアリスムは、本家フランスと比べ非政治的で美学的だとされる。だがシュルレアリスムもまた危険思想として弾圧された。時代が酷似する今、当時の詩人たちの心情と言葉がリアルに迫る。
『一九三〇年代モダニズム詩集』(季村敏夫編、みずのわ出版)は、戦前神戸でシュルレアリスムの詩を書いた矢向季子、隼橋登美子、冬澤弦のアンソロジー。いずれも詩集も遺さず経歴もよく分からない。季村氏は戦前の詩誌で三人の詩に出会った。とりわけ二人の女性詩人についての論は興味深い。当時女性がシュルレアリスムの詩を書くことが、どのような苦難と解放感をもたらしたのかが分かる。総動員体制下で孤独を貫いた矢向の詩は、「何かに、激しく促されるまま、ことばを刻む。官能の火と花の軌跡、奇跡といっていい行為の結晶」だ。だがある時から沈黙し詩界から姿を消す。一方隼橋は治安維持法違反で獄中にいる夫に差し入れ弁当を作っている最中急死した。「すさまじいものが/自分の本心であった」と赤裸々に記し、モダンな言葉の内に軍国主義への怒りを込めた。
 二人の女性詩人の沈黙あるいは死に暗い影を落とすのは、「神戸詩人事件」(一九四〇年)だ。シュルレアリスムに傾倒した神戸の文学青年が弾圧された事件であり、「京大俳句事件」も同時期に起こった。
『薔薇色のアパリシオン 富士原清一詩文集成』(京谷裕彰編、共和国)は、「戦前の日本シュルレアリスム運動の中心」にいて、シュルレアリスムの「受容から展開への要の時期に、極めて重要な仕事を遺した」幻の詩人の全貌を明かす。富士原もまた一冊の詩集も出さないまま徴兵され、三十六歳の若さで戦死した。時代の光と闇を詩への純粋な意志に映し出す言葉の、ガラスの美しさが胸を打つ。「風はすべての鳥を燃した/砂礫のあひだに錆びた草花は悶え/石炭は跳ねた/風それは発狂せる無数の手であった」(「成立」)
  平塚景堂『夜想の旅人』(編集工房ア)は、昨秋刊行の『白き風土のかたへに』よりも前に書かれた作品を収める。京都の禅僧でもある作者の独自のモダニズムあるいはシュルレアリスムは、風土を透明化し永遠へ吹きさらす。仏教哲学が詩の大胆な発想と展開をもたらしている。

「いま 窓の外では 霞(かすみ)にゆれて/ジャコメッティが歩いてゆく/物の誕生を/点滴のリズムに乗せて彫刻し/誕生こそが死の/懼(おそ)れであった時代を/今に呼び返している//ある日/曲がらざるものが/十億の瞬(まばた)きをする//その日/ぼくは 地下鉄の背後から忍び寄り/脳のいちばん細い繊毛(せんもう)を/学童たちの帽子に結(むす)んだ」(「虚空書簡」)
 左子真由美『RINKAKU(輪郭)』(竹林館)は、自身の中に見える詩の時空を、平易な言葉で抱き留めるように描き出す。作者の生と詩は、抱き抱かれる関係にある。掉尾を飾る詩「グラス」は象徴的だ。詩は「グラス」で詩人は「液体」か。それともそれは逆なのか。
「その形が/うつくしいのは/かろうじて薄い一枚の仕切りにより/なかにたたえられた液体を/しっかりと/抱き留めているからである/倒れることなく/壊れることなく/まして/役目を捨て去ることなど/決してなく/液体の重みを/支えているからである」