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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2021年7月19日京都新聞朝刊「詩歌の本棚・新刊評」

 すぐれた詩は音楽に似る。だが音韻が美しいというだけでは「音楽」にはならない。心と心が響き合うという言い方でも説明出来ない。「音楽」はむしろ心が消え果てた冷たい空虚からやって来るように思う。言葉が読み手にひそむ空虚に触れ、不思議に鳴らす。そして無音の「音楽」は生まれる。まるで思わぬ内奥の傷が、新鮮に痛み出すように。
 颯木あやこ『名づけ得ぬ馬』(思潮社)の詩世界をみたすのは、澄明で冷たい空虚だ。そこから深い苦悩を経て研ぎ澄まされた言葉がこちらへ、というより天へ垂直に射られる。同時に言葉は読む者の内奥に突き刺さり、響く。どの詩でも愛や祈りをめぐる痛切な自問がなされつつ、自己や現実はつよく否定される。だがむしろそれゆえ比喩は煌めき、撞着語法は官能的で、詩だけに可能な「音楽性」が生まれている。自立する身体の部位、雪や獣など北方のイメージの多用は、パウル・ツェランの詩世界を想わせるものがあるが、思えばツェランも、アウシュヴィッツの苦悩が生んだ極北の空虚から、煌めく言葉を放つ詩人だった。
「湖面を渡って/霧をぬけて/黒い毛並みかがやかせ/きたのだね、/名づけ得ぬ馬//わたしは 馬に呼びかけるすべなく/蜘蛛の糸を爪弾き/つめたい泉を掬ってはこぼす//きたのだね、/名づけ得ぬ 夏の日//窓はまばたき 兆し捉え/いちばん伸びた向日葵に 一礼するひとびと/すべての耳たぶは 鈴/蜉蝣が ゆめから色彩を吸って生きはじめる//知っているよ、/その背中にまたがって疾走すれば/累々 乙女の屍あふれる谷で 風に斬られる日もある/谷底には ただ ことばにならない雫が/はりつめているだけということ//名づけ得ぬ馬が/まなざし熱く/わたしの真向かいに立つとき//わたし全体を 駆け抜けてゆく蹄がある」(「おとずれ」全文)
 尾世川正明『糸切り歯の名前』(同)の詩行は、軽妙に水平にずれていく。ナンセンスの力で時空は次第に浮き上がり、意味が重さを失い身軽になった言葉は、おのずと歌い出すようだ。「今様の形式だといういろは歌を崩して詩を書いているうちに、また近年、地震やら津波やら疫病やらを経験するうちに、今回の詩集を私流の今様、「歌」だと考えたくなってきました。」(「あとがき」)。空虚の寂しさを浮力として口ずさむ「歌」は、どんなモチーフをも現実からふわりと遊離させ、事物や生き物に自由と生命力を回復させる。「ねずみの歌」は、本詩集の自注詩としても読むことが出来よう。
「この国では人間たちはさておき/天井裏のねずみたちはみんなこの宇宙は/結局のところ不可知であると気がついているのだ/一千万年生きたってこの宇宙のことは何もわかりはしない/そして昨日も今日も何も疑わないし尋ねない/だからねずみたちはほそい穴は通るけれど/その先のことは考えない/むしろ走りながらねずみはねずみのうたを歌うという/口と心を少し曲げてひげを前方の暗闇につきたてて/宇宙の片隅の穴を走ってうたを歌う/開きかけた白木蓮の蕾のように口をとがらせてうたを歌う/うたは天の川が見える天上で広がって/雨のよ
うにしたたり落ちてくる」「昔からほそく長い穴の暗闇を走っていた種族の/先祖から運命づけられた使命がある/宇宙の無限軌道を/走り抜けるいわば列車旅行の乗客として/薔薇の花束のように鮮やかに/百合の花束のように滑らかに/走って/やっぱりその先の星雲を曲がったあたりで/うたを歌うのf:id:shikukan:20210719225629j:imageだ」