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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2021年10月18日京都新聞朝刊文化欄「詩歌の本棚・新刊評」

 最近詩で京言葉を初めて使った。東京から京都に来て長い年月が経つが、その時母語である標準語からふっと解き放たれた気がした。意味や感情に柔らかさが生まれ、風通しがよくなり、対象がぐっと近づいた。
 方言には標準語にはない生命力がある。京言葉にも柔らかさや雅さで、標準語がとりこぼしてしまう情感をつかみとる力がある。母語として用いる場合はなおさら、身の内からあふれるものをふうわりと抱きとってくれるだろう。
 橋爪さち子『糸むすび』(土曜美術社出版販売)は、全25篇中4篇で作者の母語である京言葉を用いているが、それは、本詩集の中心的モチーフが母への愛であることと密接な関係があるはずだ。「白寿を迎えてなお、祝祭の方向を無心に見上げている母の姿は、私には、宇宙の慈光を具現化したもののようにも思え、とても大切に感じます。それらを追う風のようでありたいとも。」(あとがき)星を見つめる母、母を見つめる私、そしてかけがえのない最後の日々を紡ぐ数々の小さな出会いーやがてそれらがみな「色あざやかな糸」となって結びあうことを、作者は予感している。
「肩の後ろを/水の垂れるような音がずっと付いてきよる/誰や 振りかえる眼のおくを/撫でるように優しい翳が横切りよる/その柔らかさが かなんのや//実は私のかあさん/車椅子の前屈みに今はもう/ほとんど喋らへん笑わへん怒りもせんで/病室の遥か彼方を仄暗い眼えで見つめたままや//かあさん/かあさんも産みたての私を初めて抱いて/その滴るように無垢な柔らかさに思わず/私を落としそうになった日の怖れ/よう 覚えてるやろ//あの遠い日の怖れと今いまの今日/死の腕(かいな)にふかふか抱きしめられてる怖れいうのは/えら
いこと似てるのやないやろか//明日は/かあさんの古い着物つぶして作った巾着に/水蜜桃ふたつ入れて見舞うさかい」(「もも」) 

 有馬敲『もっと 光を』(澪標)は、京都生まれのオーラル派詩人である作者が、散歩道を歩くような自然体のテンポと語彙で、京都の風景と一体化した老いの日常を綴る。出町柳三角州辺りを描く詩は、病の不安に研ぎ澄まされた作者の五感をとおし、川の煌めきや堰水の音がリアルに伝わってくる。最終章は6篇中5篇が京言葉の詩。母語が時代への思いを、歌のように解き放った。
「まあ そう怒らんと 笑えよ/笑えよ 笑え/まあ そう威張らんと 笑えよ/笑えよ 笑え 笑え/まあ あほになって 笑えよ 笑え/くさらずに 頭をあげて/笑えよ 笑え 笑え//まあ そうむずかしいこと言わんと/笑えよ 笑え 笑え/この世はなるようにしかならん/笑えよ 笑え/お笑い芸人のように ひけらかさんと/笑えよ 笑え 笑え」(「自然体」)
 安森ソノ子『京ことばを胸に』(竹林館)は、京言葉が「肌から離れない」ものとなっている作者が、母語とあらためて向き合った詩集。話者である「京女」の無垢で雅な声は、作者個人を超えた無数の母の声のようでもある。京言葉で異国体験を綴った詩や、「御所ことば」を使った言葉遊び風の詩が興味深い。
「おあかりも揃えられ おみつあしの形もあもじの好みとせんもじ様の好みに合わせてございました なかつぼからつぼねぐちの方へ つもじが飛んできて しんみょう達も ひもじも いとぼいつもじに ごきじょうさんなおみかお 小鳥も はやばやと お祝いに来た様子です」(「きゃもじなおめしもの」)