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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2022年2月7日付京都新聞朝刊文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 詩の言葉はふいにあふれだすものだ。日常の奥底で密かに熟成されてきた言葉が、やがてふさわしいテーマに行き当たる。その時、詩は解放されるように生まれる。「私」が「私たち」となるための地平が見えてきて、言葉は彼方へとあふれる。
 浦歌無子『光る背骨』(七月堂)は、フリーダ・カーロ伊藤野枝など、自らの愛と意志を貫いた五人の女性の魂を詩の力で蘇らせた。資料の読み込みと深い共感を元手とする筆致はたしかだ。五人の横顔がいきいきと浮かび上がる。聞こえてくる彼女たちの真率な声は、他者の魂に触発された作者自身の魂の声でもある。声は唱和し真実の地平を今ここに現出させる。
「野枝と呼ぶあなたの鋭い眼光に/わたしはじゃぶじゃぶ洗われた/海の波はぴたりと止まり/火の玉のような月がじゅうじゅう音を立てて/海から空へと昇っていった/わたしたちを祝福してくれたのは奈落だけだったが/いっこうにかまわなかった/わたしがわたしを生きるのには/誰の賞賛もいらない/鎖は断ち切られ/わたしはわたしの亡骸を海に捨てた」
「鎖骨のひとかけらは/果てしなく広がる海と等しい/泡立ち渦巻きわたしたちは吠える/運命の縄に捕らえられたとき/真実燃える薪となって/あなたの死は燃えるだろう/わたしの死も燃えるだろう/死してなお燃える眼球があなただ/死してなお燃える脳髄がわたしだ」(「大杉栄へーそのときあなたはもっとも生きる」)
 小林坩堝『小松川叙景』(共和国)が見出した地平は荒涼とした「重化学工業の夢の跡地」。高度成長時代の「未来の墓標」として巨大団地が立ち並ぶそこでは、死者の密かな意志のように汚染物質が今も滲出し続ける。作者は不都合な過去を偽装する現在という時空で、「戦後でも戦前でもなくひたすらの事後である肉体」を一人踊らせる。それは孤独な舞踏でありながら、「わたくしからわれわれを回復する為め」の人知れぬ戦いでもあり、隘路から詩のあふれる「瞬間の自由」を獲得するための儀式でもある。
「わたしは深夜の寝室で踊る/戦後でも戦前でもなくひたすらの事後である肉体/を瞬時の自由に放り出す//ーーおれを独りにしてくれ その為めに/ーーおれを輪に加えてくれ/おまえを おまえたちを 抱きしめさせてくれ//長く生きる者がのさばるこの国で/踊りは祈り/暴発する欲望(われわれ)だ/閉ざした遮光カーテンのむこう/いま街区はしずか/春の眩暈に足をとられたなら/せめておのれの温度を護れ/地面に寝転び底抜けであれ/無人のなかに人の在ることを/風吹き抜ける不条理を/ゆめゆめ忘れるな/誰か(かれ)の奪われたあしたがやがて来る」(「三月」全文)
 角野裕美『ちゃうんちゃいます?』(土曜美術社出版販売)の作者は大阪生まれの大阪育ち。「〝想い〟を強くのせられる」大阪弁で書かれた作品に惹かれる。「ちゃうんちゃいます?」「歯ぁ、が。」「かなんな」と題する詩もある。全体に日常のざわめきが満ちるが、詩「『あんたなんか産むんじゃなかった』というささやき」では大雨の日、レジの店員が不意に手招きし、「わたし」の耳元で親から吐かれた暴言を囁く。「わたし」の動揺は詩の終わりまで収まらない。「運転席についても/ずくずくの気持ちが乾くまで/エンジンを直ぐには/掛けることはない」。激しい雨音と警報のアナウンスもあいまって、「ずくずく」というずぶ濡れを表す擬態語が不安をかき立てる。この不穏な世界からやがてどんな地平が見えてくるのか。