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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2023年4月3日京都新聞朝刊文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 今、人間の声がどこか聞こえがたい。胸の内から自分の思いを誰かに届けようとする真率な声の響きが、巷間(こうかん)から消えているように思えてならない。しかしだからこそ詩が存在するのであり、必要なのだと思う。ちょうど半世紀前、石原吉郎は詩の本質とは「ひとすじの呼びかけ」だと言った。「一人の人間が、一人の人間へかける、細い橋のような」声であると(「失語と沈黙のあいだ」『海を流れる河』)。
 紀ノ国屋千『美と伴に』(竹林館)の作者は1943年生まれ。長年労働者のサークルで詩を書き続けてきた。本詩集は約250頁(ページ)にわたる全詩集だ。通読し、久しぶり人間の声を聞いた爽やかな気分になった。作者は自然の美しさや人間の尊さへの詠嘆の思いから言葉を率直につかみ、詩を造形する。森羅万象のユニゾンに言葉は共鳴し、おのずとリズムを生む。触覚を中心とする表現力は、技術者としての経験から培われたものだろう。
 とりわけ水というモチーフに作者が鋭敏であるようなのは、京都で生まれ今も京都に生きていることと関係があるはずだ。例えば琵琶湖疏水と疏水を完成させた人々へ捧げる「疏水ー限りなき水へのオード」は、貴重な叙事詩でもある。一方、極小の一滴をうたいながら、無限大の「自由」へ想像力を羽ばたかせる巻頭作も胸に迫る。
「朱い木の実に朝露の衣/ぐうーん、ぐうーんと/伸びやかな朝/木々をとりまく 霧/霧に集う幾千の想い/私はちっぽけな/ホモ・サピエンス/この爛(ただ)れた文明に 立ちすくむ//キリはキリを集め/透き通る一滴/天空からの/贈り物//たったひとつ・自由の結実/自由はおまえ/おまえの宇宙/限りなく遊べ水滴//ひろがりのすべて/時の無限/慈しみとやさしさだけの世界//さぁ 行け 霧のボヘミアン/そして何時か/その美しい大地へ/私を呼んでおくれ」(「水滴」全文)
 この詩は、平和の象徴である鳩(はと)を主人公とする二十四才の時の長編詩「ー人民の中に飛び立つ鳩のためにー」と、「呼びかけ」において通底する。一羽の小さな鳩を「ウリヤーノフ」と名付け、その過酷な旅を想像し励ます詩だ。一点の輝く光となって消えた鳩に、平和への痛切な希求を感じる。
 武田いずみ『迷路屋』(版木舎)は、全体を見通せない迷路のような世界で生きることの不安と、そんな世界で人と人が出会うことのかけがえのなさを、切り詰めた言葉と的確な比喩で表現する。作中で何が起こっているのかは暗示的な表現から想像するしかない。だが作者が伝えたいのは出来事を超えたものだ。混沌(こんとん)とした世界で悲しみや喜びを、人間の声としてどう伝えられるのかを模索しているのだ。戦争にさえも対峙しうるのはやはり人間の声、「あなた」に名前で呼びかける「私」の声である。本詩集は、詩には今なお希望を創造する力があると教えてくれる。
さちえさんの え/江戸のえですか/枝ですか/とたずねると//衣です//と答えが返る//親の想いが、ね//八〇歳を過ぎた女性が/柔らかく/目を細めている//戦争のさなかに/言葉が見張られていた時代に/生まれた娘への名づけ/それは数少ない自由/作品にも似て//私があなたの名を呼ぶと/世界は/あなたを育てた人の/願いで包まれていく//今はまだ/どこかで銃声が響く毎日だけど/未来を歩く子どもたち/幸せの衣 まとって/裾が きらきら弾んで//呼んだ?//笑顔が振り返る」(「名前」全文)