新川和江さんが亡くなった。かつて詩誌「現代詩ラ・メール」を吉原幸子さんと共に創刊・編集した新川さんは、「女性詩」というカテゴリーをまさに体現する詩人だった。こちらを包み込む大らかで母性的な声を思い出す。それは今華やかさと明るさと静けさ、そして一抹の虚無感を含む詩から、響く。詩人の魂が直接に語りかけて来る。
橋爪さち子『晴れ舞台』(土曜美術社出版販売)からも声を聞く。京都の生まれの作者の柔らかな京都弁の声。それは幼い頃の母の声でもある。母の没後編まれた本詩集は、痛切なレクイエムであると共に、命とは何か、女性として母として生きることとはいかなることかという問いと、悲しみの中で一貫して向き合う。作者の「母語」はテーマと一体化しながら、静かな思考の渦を巻いて、命の根源へと降りてゆく。
泥から現れる鯉と、母を恋う三好達治の詩をモチーフにした作品「どろ」。
「鯉は/赤 金 赤白 赤黒白 黄白 青白の/それはそれは彩(あや)ないのちの氾濫え//そやのに見入るほどに/ゆらーり漂う極彩色の鱗の奥から/何やら泥状のもんがにじみ出て/水が濁りはじめる気いがするのや/血眼でひとが/鮒から染めあげた夢の魚やしやろか/ほんまに鮮やかな異端らやこと//鯉を見てるとわたし 何でか『測量船』の/「乳母車」が思い出されてならへん/「淡(あは)くかなしきもののふるなり/紫陽花(あじさゐ)いろのもののふるなり*」//あの詩いの三好達治さんは/鯉の派手さとは対極の/うす紫色した風翳に立つ狂おしさと/ミステリアスで端正な横顔したはる//「轔々(りんりん)と私の乳母車を押せ*」やなんて/お母さんに命じていながら/決して幼のうはないし/母親よりも分別臭(くそ)うあるえ//まるで若い異端者が/母親を慕うて源郷を恋うてしながら/千年後の自身に向けて書いた熱うて/苦い手紙のようや//あの詩い読んで顔上げたら/いっつも決まって ぬちゃぬちゃ/泥底から足を引き抜くように/雲間をわたる天上の子どもらの/白うてまんまるな足くびが/さっとわたしに近づいてくるのえ//私の内らの泥を拭うみたいに な」(全文、*内は三好達治「乳母車」の詩句。)
たかとう匡子『ねじれた空を背負って』(思潮社)で、作者の魂は地図も持たず、この不穏な今の「ねじれた空」の下をあてどなく彷徨う。そのあてどなさは、世界にたいする倦怠感と虚無感と表裏一体なのだ。泥濘を行くような感覚の中で、現実はおのずと虚構や幻想へとねじれる。作者は言葉の火をともし、みずからの魂の暗がりに現れるもう一つの真実を綴る。どこかダンテの地獄篇を思わせる本詩集もまた、生と死を超える命の根源へ向かってゆくのだ。
「回転木馬のまわりには柵が張り巡らされている/猫がくぐれるくらいの裂け目はある/立入禁止区域の/遊園地の片隅/人気のない重たい風に回転木馬は/まぶたのうらの痛み/かきむしっている//朽ちた板のうえにはイタチの死骸もある/あらそいのせいか/みずからぶつかったか/空腹にたえかねて息絶えたか/ことばでその死をあばくことはできない/わたしが見ているかぎり静かである/でもこの先つづく物語の像が結べない/空はとおくへと影を曳き/何も語ってくれない//そのときだった/位置と位置との関係がずれたその隙間をぬって/回転木馬が勢いよくまわりだしたのは/打ち寄せる刻がふぶいて/わたしにめまいが襲った//誰からも忘れられた遊園地/きりきり舞いする/幼なごの/まんまるいてのひら/その面影」(「遊園地」全文)