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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

7月8日付京都新聞 詩歌の本棚/新刊評

7月8日付京都新聞朝刊 詩歌の本棚/新刊評  

                                   河津聖恵

「詩人は沈黙してはならない」という帯文が眼を引く徐京植氏の新刊『詩の力』(高文研)は、今詩と詩人について考える際に大切な視点を提示する。「この社会に『疎外され傷ついた人々』が存在している以上、詩人の仕事は終わっていない。いまの時代が詩人たちに新しい詩(うた)を求めているはずだ。」、「思うに、これが詩の力である。つまり勝算の有無を超えたところで、人から人へなにかを伝え、人を動かす力である。」、「『詩の力』とは『詩的想像力』のことである。」―今詩人は時代が求める声に真剣に応答し、傷ついた他者へ自己を開き、「新しい詩」を模索する必要がある。その詩の力こそが、共感の波動を人から人へ密かに、たしかに伝えるのだ。

 田中国男『今、なぜ高校生の詩なのか―コップの中の水をめぐって』(はだしの街社)は、高校教師だった著者が、十六年前に行った「創作授業」の記録をまとめる。授業では水の入ったコップを、生徒たちに眺めさせたり触れさせたりして詩を書かせた。「書けない人もあるかも知れません。それはそれでいいのです。では、なぜ、そこに見たものがことばにできないのだろうか。これまでなら、素直に書いていたであろうことが、いま、こういう状態や空気の中では、どうしても書けない、それではなぜ、ことばにできないのか、そのことを自由に書きなぐってみてください。」授業の目的は、情報化社会で弱まった「自分から他者(対象)へ内側の世界を広げていこうとする力」の回復にあった。だが完成した生徒たちの作品は、「身体から発せられることば」の力でむしろ教師自身を救った。かれらの詩からは、自分を閉ざすものを壊したい、世界へ開かれたい、という叫びがたしかに真っ直ぐに伝わってくる。

「ガラスという名の/透明な囲いの中から/出たい 出たいと/叫んでいる水たち//水たちは知っているのか/囲いから出たとたん/蒸発して消えてしまうことを//勉強や親から/逃げたいと叫んでいる/私たちが逃げたらどうなるのだろう//このコップの中の水で在り続けることで/辛うじて私たちで在り続けるのだろうか」

「私はもうコップの中の/水の気持ちになっている//私は水である/水は私である/私の心の叫びは水である//私はもうコップの中の/水の気持ちになっている//誰の耳にも届かない/たえまない水の死」

 塩嵜緑『魚がきている』(ふらんす堂)は、言葉の繊細な指先で世界の静けさや沈黙に触れる。世界は言葉によってかすかな振動を与えられ、美しさを増しつつ何かを問いかけ始める。死者の声の気配がする。ふと見上げる読み手の「水」も、透明度を取り戻していく。

「蒲公英は羽を持つ種子を手放し/今も残る黒いゲートを行き来する//丈高い木々はつづき/長いゲートまでの砂利道を絵画のように見せている//雲雀はいつまでもうたう/抗わぬ民族たちはしずかにここに居る//独逸語がまだ死者たちを眠らせない/ARBEIT MACHT FREI/働けば自由になれる//すべてのゲートから離れたところに/おびただしい数の蒲公英が花をつける/陽の色をして/ふかい火の色をして」(「ほろんでいるもの」)

 リジア・シムクーテ『想いと磐』(薬師川虹一訳、竹林館)は、英日対訳詩集。リトアニアの詩人の、『間(ま)』の芸術」ともいうべき絶妙な短詩が収められる。

「鏡文字で隠すものを/探し求めて/かすめるように/水面を離れる//何かが空中に渦巻く」(「水鳥たちが」)