原発事故後この国は濁流に呑み込まれている。事故直後は社会は新しい共同体を目指し、原発を放棄する道を歩むのではないか、と淡い期待もあった。だが今やこの国はさらに方位を失い、戦前からの血の流れにさえ身を任せている。本書は濁流の中で私が出会った、まさに一枚の板だ。一日分の講義をまとめた120頁ほどの書物だが、つかまって流れにあらがうには十二分の内容だ。
原発事故とその後の混乱と汚濁がよって来る源としてアジア太平洋戦争と原爆投下。その真実と経緯を、本書は分かりやすく、だが的確かつ本質的に語っていく。様々な事実が新たなリアリティの力で迫ってくる。そこには声がある。それは、詩と平和運動の双方を自身の生そのものとして生きてきた作者の声と、引用された詩から聞こえる、被爆と被曝の当事者である詩人たちの声々だ。
引用された詩のすべては、多くの人に伝えたいという作者の深い思いのこもった文脈の中から、それぞれの詩人固有の痛みの声を突きつける。原民喜の「水ヲ下サイ」から聞こえる「オーオーオーオー」という声を、私は初めて聞き届けた気がする。声は詩の引用後に語られる、民喜が日本軍の香港侵攻の録音放送から聴き取ったという中国人女性の声と響き合う。声はさらに続く。峠三吉の地獄の情景を描く「八月六日」の「忘れえようか」、林幸子の「ヒロシマの空」の「お母ちゃんの骨は 口に入れると/さみしい味がする」、福田須磨子「ひとりごと」の「何も彼も いやになりました」、正田篠枝「川は生きている」の「世界大会が なんじゃっ」「俺の 心を 知りゃあ すまい」。組織や集団からはこぼれ落ちた、詩の耳だけが救いえた声々。さらに原発事故前に書かれた若松丈太郎「神隠しにされた街」のチェルノブイリの子どもの声、御庄博実「青い光」の、今年亡くなった被爆者でもあり医師でもあった詩人の、遺志の声―。
的確にまとめられた年表を、本書と巻末の「再びその道を走るのか――安倍首相のヤスクニ参拝」の内容と照らし合わせ見ていけば、歴史の真実が滲むように見えてくる。そして2013年までの年表の先に今、再稼働と被災者の切り捨てという壁が立ち塞がる。詩人に何が出来るか。二十万の一人一人の「声の道」(ツェラン)をいかに創造できるか。私は本書につかまり、知恵と勇気を与えられながら濁流の中で模索していきたい。