昨晩のETV特集「失われた言葉を探して」は
魂の底を打つような素晴らしい番組でした。
死刑囚大道寺将司の句集『棺一基』の上梓を中心とした
同死刑囚と辺見庸さんとの交流を描いたものです。
内容はもちろん映像や構成にも大変力がこもっているのが分かりました。
辺見さんの番組におけるNHKの姿勢はいつも素晴らしいです。
昨今やや目につく同局の体制翼賛的な?「憑きもの」が落ちたように
本来の社会派的で良質な精神を取り戻しています。
こんなNHKを見ると本当に安堵します。
そしてこうした、たとえ声高ではなくとも真率で社会批判的な番組は
NHKにしか作れない、とあらためて思いました。
震災直後の番組「瓦礫の中からことばを」もそうでしたが
この番組も現在の時代状況と言葉との関係をめぐる
鋭い洞察に満ちていました。
根底には死刑=処刑に反対というメッセージがこめられているのですが、
ただ命が大切だからというのではありません。
死刑囚であれどんな人であれ
人間は自分の言葉を最後まで持とうとする=惟(おも)おうとするのだから
そのことだけは奪われてはならないのではないか、という
人間=言葉という根源的な次元からの問いかけがそこにはあるのです。
死刑反対には「人間とは何か」について入念な考察の裏付けが必要ですが
その点で辺見さんの主張には大変説得力がありました。
なぜ辺見さんは大道寺氏に句を作れと言ったのか。句集を出せと言ったのか。
それは同氏が癌に侵されているからだというだけではありません。
どんな時でも人間を救うのは言葉だからです。
「自分が死に目に遭った時に、本当に欲しかったのはりっぱな医者や治る薬はもちろんだが、本当のことを言えば『ことば』だった。だから痛いだろうが、書いてくれないか。作句を止めないでくれないか。」
そして大道寺の言葉こそは辺見さんの絶望を救うのです。
「獄中獄外のどちらが荒んでいるか。獄外では皆がちゃんとした共通の言葉を使っているかもしれない。絆とか勇気とか復興とか。しかし簡単にそういうことをいうけれど、本当はそんな言葉は誰の心臓も掴んでやしない。そこに震災以降の悲しみや救われなさがある気がする。もう少し物事の成り立ちを一つ一つ解いていこうではないかという気持、試みの力がなくなってきている。このデジタル社会の中で、表現というものを、自分が本当は信頼していない、自分の表現にすら猜疑心を持ち始めているということがある。今生きてある、放置してある、隠されてある大道寺将司に会うと、その自分の猜疑心が解けてくる。多分それは、彼があの時代にもった、ある種素朴なまでの正義感というものを、まるでホルマリン漬けにされてしまった、冷凍保存された存在だからではないかとさえ思ってしまう。」
しばらく番組からのメモをもとに言葉と人間と現在について
そこからひいては詩について
自分なりに考えをめぐらせていきたいと思います。
(但しメモから再現した引用は、省略もあり、文章として正確なものではありません)