ツイッターでこの番組の感想などを呟くと いくつか反応がありました。
ある人は次のように呟いていました。
「生きるということを考察した番組と受けとめました。『思う』ことを放棄した個はどこへ向かうのか。はっとする。自分が生きていることに気づかなくとも過ぎていく日常。明日再放送ですね。もう一度『思って』みます。」
私もまた
この番組は死刑囚と詩人との交流を追ったものでありながら
いやそうだからこそ今「生きること」を深く触発すると思います。
一番感動的だったのは、辺見さんと大道寺将司との「ハイタッチ」のシーン。
(この辺りメモ書きが乱雑で、正確ではありません)
出版が決まって初めての面会の別れ際、
どちらからともなくアクリル板越しに手を合わせた。
喜んではいけないことでしたが、
じっと体の底から湧いてくる喜びにそっと互いに手を出したそうです。
そう、犠牲者を思えば自分のためには喜んではいけない。
しかし久しぶり訪れた真に生きる喜びは心からあふれずにはいられない。
「句集を編むことで、抗がん剤を打つだけの日常とは違うものになる。その結果、亡くなった方々の死がどれだけ無念だったかが分かる。それを彼は自覚している。」
死刑囚大道寺将司は
自分が生きる喜びを感じれば感じるほど
犠牲者の無念な気持を痛感してしまうのです。
生きる喜び⇔犠牲者の無念の自覚
という往復をつねに死刑囚=俳人は行っている、
次の句には散文体ではどんなに言葉を尽くしても伝えきれない謝罪と自責がある、
辺見さんはいいます。
「ででむしやまなうら過(よぎ)る死者の影」
「彼の俳句は苛烈なまでに自分を責めていく。言葉だけでなく根源まで指弾していく。」「簡単に文学とか詩とかいう。だがじつは本当に生身の自分の恥という部分には、体に沈んだ恥のところには、光を当てていないのではないか。思考の向きを自分に向けずに他者に向けて、自分の内面に光を当てない。そこにこの国の戦後と現在がある」
今日、この国はまたいくつ恥をみずから失い、内面の闇をどれだけ拡げたのでしょうか。
この国の片隅では
忘れられた鳥かごのような独房の中で
死刑囚が間断なくおのれの恥と向き合い惟いつづけているというのに。
[E:shine]なお、これから再放送です→4月22日(日)00:50〜02:19 教育テレビ