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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

4月15日放映ETV特集「失われた言葉を探して」(五・終)

辺見さんは昨年末
故郷石巻の高台から、被災の光景をまのあたりにしました。Kurayami

「立体物がちっぽけで、安っぽくみえるよな。構造物もすべて。もともとそうだったことを、あの震災は教えた。構造物だけでなく、言語表現もまた。いや言語表現は特にそうだ。言語表現的なものは暴かれ、放置されたままだが、実際、全体としてはそれに気づいていない。」

このような言葉を待って初めて、
私たちは知るのです。
日本中がテレビを通して繰り返し見せられたあの石巻の光景にAkashi
私たちは本当は何を感受していたのか、
あの光景によって無意識ではどんな真実を認識していたか、
いいかえれば
あのような傷を受けてまで世界は私たちに何を警告していたのか──

しかし
被災の光景を目にしている世間の人々が
その光景が訴える真実に気づくことがないのに対し、
獄中にいる大道寺将司は
3.11後、ことの本質を照らし出すような句を詠みます。

「暗闇の陰翳(いんえい)刻む初螢」

「大道寺はこの一句でおそらく福島県を想ったのではないか。妖しい放射線に汚れた宵闇で、あたかも放射線の波動のように明滅する蛍火を、確定死刑囚の独居房で瞑目して想ったのではないか。誰しもそのような作品を現実と拮抗しないなどと言うことはできない。大道寺将司の想像の射程は、あまりにも長い拘禁生活で短絡させられ狂わされているのではなく、ときに死生のあわいをさまよいながら、死と生の本質にむかって伸びに伸びた。」
(『棺一基』序文)

この一句が与える「痛覚」。
夏の夜、
誰もいない福島の村に一匹の螢がすうっと闇を切って飛ぶ。
放射線に汚れた闇をみずからの生だけで照らし出して。
それでもなお存在する小さな生を
こまかくふるえる振動で証し立てながら。

大道寺は手紙に書いています。
三菱重工爆破事件と自然災害を同じ次元で語れるものではないが、おのれのなした誤りの深さを突き付けられています。」
犠牲者と被災者が結びつかざるをえないゆえに
ふたたび途方もない罪業をみずから背負ってしまう確定死刑囚。
しかし獄外=世間を見回せば
そのように苦悩に沈む人間は何人いるでしょうか。
世間は悲劇をいつしか都合よく記号化し、
「復興」や「絆」という虚構に回収するだけではないのか。
あんなに人が死んだのに
もはや誰も死ななかったように意識は地ならしされています。
決して大道寺を讃えるのではないのです。
ただ、
彼が新たな二万の死者の苦痛をも日々背負い続ける=証そうとするのに対し、
世間は亡くなった人々の存在を証すどころか
完全に封殺してしまおうとしているのではないでしょうか。

「亡くなった人から見れば、私たちは生き残っている、奇しくも生きている。じたばたしながら、自分を生きよう生きようと証していいのではないか。大道寺が五七五として証そうとするような試みを、どんなにはいずり回ってもやるべきではないか」

今、自分が自分であることを証すことのがいかに難しいか、
と辺見さんは言います。
「自分のことばでそれを証し立てていくしかない」
そう、たとえ無理であっても、じたばたするしかなくても、
生き残った者たちがなすべきことはただ一つ。
今を取り巻く集団的な無意識の力に抗いながら、
一人一人が自分と向き合い、自分を照らし出すこと。
照らし出すためのことばの光をこの真闇の中から?み出すこと。
そのように自分を証し立てること。
放射能に汚れた世界を
よるべない光の螢のように生き続けるということ。