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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「現代詩手帖」4月号(二)

気になった発言がありました。

「鮎川さんはプライベートなものを言論の世界から分離したけれども、文学を駆け引きの条件にしなかった。それはとても重要なことで、政治的な発言をするときにはもうまったく留保なかった。私は文学者だから、なんて発言はしないわけです。いまでもそうですが、リアルな政治的問題、たとえばイラクの戦争、アフガンの戦争があって、あるいは9.11があって、それが詩にどういうインパクトを与えたか、というような問いかたが、一般的にはあるわけです。詩という囲われた領域があって、それを外に向って開いて、現実の問題にも目を向けなくてはいけませんよ、みたいな話しかた。でもそういう守られた領域性はまったくの虚妄だと思う。つまり言葉を公開の場所に出したら、それは直に戦争と接続しているわけで、そこには文学によって守られる領域なんてない。すでに晒されているんだから、開くも開かないもないわけです。詩というジャンルをほかのジャンルに開いてみましょうという言いかたもまったく無効だと思う。詩の言葉が公開されるところでは、すでにすべてが直接開いているんだということ。だいじなのはそれを自覚することであって、開こうとする手続きなんかは必要ない。鮎川さんはそれをひじょうによくわかっていたひとだと思う。政治を語るときは留保なく政治のことを語るし、プライベートなことを語るときだって、そこに文学者だから、という留保はない。」

現代詩手帖4月号の「詩魂を継ぐこと」という岸田将幸氏との対談における、瀬尾育生氏の発言です。
大変気になりましたので、ここに書き写してみました。
ここで語られているのは、抑圧的でトリッキーな論理だと私は感じています。
文学者だから戦争に反対する、
文学者という立場で政治的な問題に発言する、
というスタンスに対して、いわば全否定することのできる論理が展開されていると。
「詩という囲われた領域があって、それを外に向って開いて、現実の問題にも目を向けなくてはいけませんよ、みたいな話しかた。でもそういう守られた領域性はまったくの虚妄だと思う。」
つまり瀬尾氏の論理からすると、
詩人という立場で外に向かって発言をした、という行為が生まれた瞬間に、
その詩人が「詩という囲われた領域」に守ってもらおうとしている、あるいはその領域を担保(駆け引きの材料)としたことになる。
これはとても理不尽なパラドックスです。
詩人あるいは文学者がそれぞれ固有な人間としての生の中で、詩や文学を考えてきた者としての立場で(詩人一般や文学者一般なんて立場はありません)、政治的発言や行為をすることに対して、いわば事前規制をかける抑圧の論理です。
ここで言われるのは、例えば戦争という状況に接続するならば、詩人という立場を捨てて直接状況に晒されよということですが、
それは逆に言えば、詩とは社会的な発言をしない存在でありつづけ、
社会と接続せず、孤絶をよしとする自前の論理と価値で生成していく言葉である、ということになってしまいます。
そのようなガラスの中の言葉こそが純然たる詩であるという価値観がもし貫かれるのならば、
詩人たちがガラスを割らぬよう言葉と思想を事前規制した結果、
詩の世界とは、誰もいない、そして何も訪れない清潔な広場のようになってしまうのではないでしょうか。
しかし一番問題なのはこの論理だと
非社会的という立場でこそ詩は最も社会的になるのだという倒錯した論理が生まれてきてしまうことです。つまり瀬尾さん、あなたが一番守られるのではないでしょうか。