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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

歴史学研究会の抗議声明を読む(二)

戦後建設された朝鮮学校は、植民地支配によって奪われた民族教育の機会を取り戻し、民族的尊厳を回復しようとするところから始まった。しかし、日本政府は戦後も朝鮮人の民族教育を弾圧し、植民地主義的な同化政策を継続させていった。

なぜ、日本は戦後も朝鮮学校を弾圧しようとしたのでしょうか。
そのことは、次の徐さんの記述が説明となると思います。

「そのとき(注:戦後、徐さんの祖父が朝鮮半島に戻るが、祖国の荒廃のために、父は日本に残って仕送りをすることになったとき)日本国政府は、講和(サンフランシスコ講和条約)以前の朝鮮人の国籍変更を認めず、日本国籍保持者であるとという立場をとったのです。日本は確かに戦争に負けたけれども朝鮮人も台湾人もまだ日本国籍保持者なんだと、戦勝国との講和条約でそのことは解決される。だから講和条約締結までは朝鮮人、台湾人、旧植民地出身者は日本国籍者として扱うという立場なのです。そうであるから在日朝鮮人民族学校を作っても認可しない。日本国保持者は日本の学校教育令に基づいて日本の公立学校に行けということで、それを潰したんです。」(『秤にかけてはならない』)

この辺り、私の頭もこんがらがってしまいそうです。事実関係を整理しなくちゃいけません。

そもそも国籍の話です。
日本が朝鮮半島を植民地化して、朝鮮人日本国籍になったということでしょうか。
なかなか錯綜していて理解が難しいのですが、上記の徐さんの本や若干の資料をもとに整理してみました。
付け焼き刃で書いているので、間違っていたら指摘して下さい。

日韓併合条約が1910年。
ここで朝鮮人日本国籍となったことになるのでしょうか。
いったい戸籍はどうなっていたのか。
そのまえに、朝鮮では「十八世紀頃には人口の七、八割が本貫と姓を持つ者として戸籍に登録されるようになった」(水野直樹『創氏改名』)ということです。
つまりまず朝鮮独自の戸籍があったのです。
それから1905年に日本と大韓帝国のあいだで保護条約が結ばれ、日本は韓国を保護国とする。実質的な植民地支配の始まりです。
1909年に韓国の法律として民籍法が公布・施行されました。
それは当時の日本の戸籍をほとんどそのまま取り入れたものだったそうです。
1922年に朝鮮戸籍令を総督府が出しました。
そこで内地への転籍が禁じられました。
なぜなら「1920年代から徐々に徐々に朝鮮人が日本に渡航するケースが増えて」きて、「同じ帝国臣民だと言いながら、このまま放っておくと日本人と朝鮮人の区別がつかなくなるんじゃないか」という不安が生まれたからです。
その逆の、日本人が朝鮮に戸籍を移すこともできなくなったそうです。
戸籍が、民族を分ける強固なシステムとなったのです。
ここで「朝鮮戸籍法」ではなく「朝鮮戸籍令」という「命令」であるのは、「朝鮮では法律はありませんから、総督がそういう命令を下したわけです」(しかし、「法律がない」とは、法に守られないということではないでしょうか・・)
この戸籍令以後、朝鮮人は日本へ移動(当時朝鮮は日本の一部ですから、日本への移動は、海外渡航ではなく、日本国民が日本国内への移動となります)したとしても、戸籍は移動できなくなった。
だから、日本に長年住んでも、戸籍はあくまで朝鮮にあるままとなりました。
つまり日本人だったら、他県へ転籍できるが、朝鮮人は戸籍を動かせない。
だから戸籍を見れば、「朝鮮人かどうか何代さかのぼってもわかる」ようにできた。
「それが敗戦直後に生かされたのです」と徐さんは書いています。

これが戦争が終わるまえまでの、朝鮮人の戸籍が置かれていた状況です。
うーん、複雑すぎますが、戦後も同じく複雑になっていくようです。