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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

野田正彰『虜囚の記憶』(二)

野田さんの筆致は、論文調でも情緒的でもありません。

しかし読むこちらに食い入ってきます。
その理由は恐らく
野田さんが、書かれる事柄を
自分自身の真芯で受け止めているから。
そして、そこから、自分自身とこの社会の人格のあり方を問いかけ
今なお苦しむ戦争被害者たちに対する
責務を果たそうと心をくだいているからです。

知る、伝える、教育する。
それを行おうと、どんな一隅からでも身を起こすこと。
私たち個人が、共同体に対して責務を果たす方法は
それしかないはずです。
それが
「コミュニティが歴史上の道徳的義務を負う相手」(マイケル・サンデル
である他者に対し
日本という共同体を成熟させるのですから。

まず知ろうとすること。
被害者の言葉を聞こうとすること。
その了解不能な事実を知り、絶句すること。
沈黙ののち、自分自身の言葉によって
それを伝えようと身を起こすこと。
何度もなんども思考と言葉の努力をつみかさねること。

しかし今
なぜそうしようという意欲と勇気が、この社会にまったく欠けているのでしょうか。
あるいはそうした意欲や勇気を、むしろ冷笑する空気が
蔓延しているのでしょうか。

しかし実際、被害者のいる現地に行くことはできなくとも
野田さんや多くの人々の地道な調査・研究の仕事から
学ぶことはできるはずです。

それはもちろん辛い気持を伴うものですし
地道な努力もしなくてはならない。
そして当初は違和感や疑問が生まれもします。
もちろん
恐らくこの六十五年、戦争や他者を忘却する一方だったこの社会で
今「歴史的な責務を果たす」などという姿勢は
むしろフィクションに感じられてもしまいます。

しかしサンデルの本が提示したように
「正義」とはつねに
さまざまな「善」の関係と対話の努力によって模索されるものです。
その努力のための足場として
私たちはこの絶対的なフィクションから出発しなくてはならないと思います。

絶対的、といえるのは、未曾有の戦争被害がたしかに存在し、
その被害者が今なお苦しんでいるから。
それを直視するためには、この足場しかないのです。

そしてそのことが、この社会が「正常化する」ために必要なのです。
今なお、他者と共にあろうとする人々がかぎりなく蔑ろにされるこの社会にとって。

「それでは、「強制労働の文化」は極限に達した後、日本敗戦によって泡のごとく消えていったのか。否、これまで調べてきたように近代日本の経済、政治、そして人びとの社会観に深く根ざしていた以上、そんなに簡単に消え去るものではない。残酷な労務管理が化粧を変え、戦後日本へどのように継承されていったか、考察を忘れてはならない。」

「だが私たちは、自ら好んで綺麗な奴隷社会を造っているのではないか、そう疑問を持つこともなかった。」

「強制労働の文化は形を変え、装を新たにし、日本的特殊性として続いている。」