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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

4月4日付京都新聞夕刊「民族問わず、思いは一つ」──朝鮮学校も開放、避難所に

★4月4日付京都新聞夕刊(PDFはこちら→kyoto.pdfをダウンロード

  「民族問わず、思いは一つ」──朝鮮学校も開放、避難所に

   東日本大震災で、宮城県福島県朝鮮学校が校舎などを避難所として開放。日本人を受け入れたり、支援物資を各地に配ったりして、被災者の力になっている。「民族を問わず、命を救いたい」。在日朝鮮人たちの思いは一つだ。
 福島朝鮮初中級学校(福島県郡山市)には震災直後に6〜84歳の約30人が避難。半数は沿岸地域の近隣自治体などからの日本人だった。ストープがあり、布団十数組も備蓄。「この先どうなるのか」。教室に約10人ずつが分かれ、悩みを打ち明けながら励まし合った。
 福島第1原発から約4キロ離れた福島県双葉町の半谷一彦さん(51)は、在日の友人に誘われ、同県いわき市父親(84)を連れて避難した。
 父親は糖尿病、高血圧、心臓病などで11類の薬が欠かせない。在日本朝鮮人総連合会朝鮮総連)から派遣されたスタッフに相談すると、車で郡山市内の病院に連れて行ってくれた。「一人ではとても無理だった」と半谷さんは振り返る。
 生徒や教師は自宅待機で不在だったが、朝鮮総連から食材や燃料が届いた。焼き肉店を営む朝鮮籍の男性が腕をふるい、食卓にはごはんやみそ汁、キムチが並んだ。ほかの避難者も後片付けや掃除を分担。気分転換に校庭で野球やサッカーをし、寒空の下でともに汗をかき、笑い合った。
 避難者は徐々に親類宅などへ。3月末に最後の一人を見送ったスタッフの金政沫さん(59)は「私たちは日本で育った。民族の違いを考えず、仲間として助け合えた」と胸を張る。
 東北朝鮮初中級学校(仙台市太白区)は校舎の壁が崩れ、傾いた。近所の高齢者らは敷地内の寄宿舎に身を寄せた。教師は宮城県内の避難所数力所を訪れ、朝鮮総連や全国の在日の人から届いた支援物資で、数百人分のおにぎりや豚汁、焼き肉などの炊き出しをした。
 気仙沼市の神社では、孤立状態の避難者約100人に「初めて人が来てくれた」と歓声で迎えられた。「今後も物資を配る。被災者に国境はない」。尹鐘哲校長(50)は力強く言い切る。