2日から4日まで
許玉汝さんと、山口に行ってきました。
現地では広島の歌人野樹かずみさんとご主人に大変お世話になりました。
この旅については許さんも書き始めて下さっているので
ブログを御覧下さい→ http://blog.goo.ne.jp/okuyeo
この旅行はかつて一度訪ねたことのある金子みすゞと中原中也の故郷を
もう一度あらためて見てみたいと私がふと口にしたことが
同じく詩人の許さんや野樹さんの詩心を触発して実現しました。
初日はまず下関へ。
みすゞが20歳から移り住んだ下関は興味がありました。
そしてこのまちはもちろん
許さんがブログで
「80年前父や母が一番最初にたどり着いた所」と書いているように
戦前、朝鮮人たちが植民地下の朝鮮からやってきて辿り着いたところです。
以前、ツイッターで関門海峡は痛みの海峡、と語っていた人もいました。
木屑ひろひ
朝鮮人の子、何つむの、
げんげが咲いたの、よもぎなの。
いやいや、草は枯れてます。
朝鮮人の子、何うたふ、
朝鮮人のお唄なの。
いやいや、日本の童謡です。
朝鮮人の子、たのしげに、
こぼれ木屑をひろひます。
製材裏の廣つぱで。
木屑ひろうて、束にして、
頭をのせてかへります。
小さなお小舎(こや)で、母さんと、
とろとろ赤い火を燃(も)して
父さんの帰りを待つために。
1905年、
下関と韓国の釜山の間を
関釜連絡船が就航しました。
その年、みすゞの父親も清(中国)に渡りましたが
翌年現地で病死します。
「木屑ひろひ」が生まれた頃(1929年)には
関釜連絡船を利用して下関へ来る朝鮮人も、
下関から朝鮮へ戻る者もそしてその分残留する朝鮮人の数も
就航時に比べて大幅に増えていたはずです。
そんな当時の一人の朝鮮人の子どもを
どこか羨ましそうに見つめるみすゞのまなざし──
当時、みすゞは孤独でした。
幼い頃父を喪い、
15歳で再婚した母親はみすゞを仙崎に残し下関に行ってしまい
20歳まで母子は別れて暮らしていました。
そしてこの詩を書いた当時も、下関で家庭を持ちつつ
夫に詩作や手紙を書くことを禁じられていました。
そんな身の上であるみすゞにとって
楽しそうに日本の唄をうたい木屑を束にして頭にのせて集めている朝鮮の少女は
きっととてもいきいきとしていて
貧しくとも温かな家庭の存在を感じさせたのでしょう。
(ちなみに中原中也にもやはり同時期に書かれたものと見られる、
日本に住む朝鮮人を題材とする「朝鮮女」という詩があります。)
写真上は関釜連絡船の後身である関釜フェリー(就航1970年)の船舶である
「星希(ソンヒ)」号。
その下の二枚は、下関のコリアンタウンである「リトル釜山」の風景。
商売っ気のまるでない焼き肉屋のピビンパは本格的に美味しかった。
たまたま見つけた朝鮮学校の制服を作るお店は懐かしく可愛らしく、
フェリーでまさに直輸入の韓国の靴下や衣料品がおそろしく安いお店も
立ち並んでいました(あたたかいポソン、4足で千円で買いました。
隣の店は5足で同額だったけれど(ノ゚ο゚)ノ)
往時の賑わいはないけれど
歩いているだけでも何だか楽しいまち。
気さくに声をかけてくれるおばちゃんたちも、あたたかな昭和の雰囲気を感じさせました。