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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

『100,000年後の安全』(マイケル・マドソン)

Image1458 先日見た、フィンランドの高レベル放射性廃棄物の地層処分場建設のドキュメンタリー。
マイケル・マドセン監督(デンマーク)が2009年に制作しましたが、
まさに今、この日本で見る者がもっともタイムリーな戦慄を覚える映画ではないでしょうか。

ヘルシンキから北西へ240kmにあるオンカロ(ONKALO)(フィンランド語で「洞窟、空洞、穴、渓谷」という意味)は、現在建設中の使用済み核燃料処分場。
つまり、日本でいえば六ヶ所村のようなものです。しかし六カ所村には低レベルと高レベル双方の埋蔵・貯蔵施設がありますが、オンカロは高レベルのみ。なぜかといえば、フィンランドでは使用済み核燃料を再処理しないから。日本は再処理するから、その過程で低レベルで色々汚染された廃棄物がでるわけです。

マドソン監督はもともとサウンド・アーティストだったそうです。そのせいか、映像美を崇高な音楽がもりあげていて、まるでSF映画をみているようでした。

宇宙基地のような入口、地下深く続く暗い坑道、岩壁を掘削しつづける近未来の機械、施設の中の最先端の設備、使用済み核燃料棒をすでに閉じ込めている美しい青い水、カーテンの向こうに何万年の未来の前兆のように立ち込める発破の霧……

霧の立ちこめている場面で、これに似た映画をどこかで見たと思いました。
そうだ、アンドレイ・タルコフスキーの「ストーカー」。

場面の大方は忘れてしまいましたが、ストーリーは以下のようだったと思います。
ある地域で隕石が墜落?し、住民が多数犠牲になり、政府はそこを「ゾーン」と呼んで立ち入り禁止にした。
しかし、「ゾーン」には願いが叶うという「部屋」があったので、希望者を厳重な警備をかいくぐって「ゾーン」に案内する「ストーカー」と呼ばれる人々がいた。
あの映画のワンシーンに、砂地に何かを投げて「部屋」へと這っていく場面があった覚えがあるのですが、そのときにも砂埃があがったと思います。
そして「ストーカー」が制作されて何年かが経って、チェルノブイリの事故があったはず。とすれば、あれも原発による破壊の予感を表現していたのでしょうか?

この「100,000年後の安心」は、若い世代が作ったものですが、たしかにタルコフスキー映画の暗さ、ペシミズム、美意識と共通するものを感じます。

廃棄物が安全になる100,000年後まで地下深く隠しておく。
でも10万年後の人類は、今の人類とはまったく違った言語や文化を持つはず。
であれば、ここが「ゾーン」であることをどう伝えるのか。
危険を伝えるには絵による警告しかない、ということで、 ムンク「叫び」を描いたらいいという台詞もありました(この映画では関係者一人一人に画面に向かって、語らせます)。

しかし100,000年後だなんて。それでもプルトニウムは完全に消えないし、60.000年後には氷河期が訪れて人類は滅びるかもしれないという。その前に、もしかしたらウランを争って戦争が起きるかもしれないし、地上では何があるか分からないともいう。

それに、危険を危険として知らせれば、かえって近付きたくなる人類の悪い性格が、10万年後に直っていない可能性もあるのです。

いずれにしても、私たちの今こそが、遙かな未来にとってはもはや危険な古代なのです。
そのことを、この映画の暗く、重く、冷たい映像美は、終始私にきこえないアラームにして送りつづけていたと感じます。

映画のラストは、ヴェルレーヌの詩による歌曲「巨大な暗黒の眠り」(作曲ヴァレーズ)が戦慄的な効果をあげていました。

見た後で、答えが出ない暗い淵と、否が応でも向きあわせられる映画だと思います。