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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

矢部史郎『3.12の思想』(以文社)

深い触発を受けた一書です。312jpg
昨年末と今年初めに行ったロングインタビューをまとめたものだそうです。
それだけに読みやすかったですが
読むにつれて深く考えさせられていき、やがて絶対的な絶望へ向かわせられもしました。
しかしそのことによって
これまでの震災をめぐる種々の言説に重くがんじがらめになっていた心は
根本的な解放感を与えられたように思います。

文章は平易でありながら
今「みえているのにみえないものが何か」を正確に言い当ててくれます。
まず3.11の陰に3.12がみえなくされている。
私たちの生命には3.12の危険があまりにもみえすぎているのに、3.11だけが喧伝されていく。

私も3.11というネーミングには
いつからか何かこちら抑圧する「空気」を感じ始めていました。
矢部史郎という市井の思想家は
3.11という呼称にある違和感から明晰に解き明かし、
そこに何が隠ぺいされているのかを鋭敏に指摘します。

 放射能拡散という問題を、それ自体として正面から見据えなくてはならない。この問題を「3.11」の副産物のように扱って、「未曾有の自然災害」という構図のなかに丸めてしまうと、問題は見えなくなってしまう。
 「3.11」はいまも現在進行形で拡大している公害事件です。いま福島第一原発が奇跡的に収束したとしても、拡散した放射性物質は地面に残り続ける。(略)国のエネルギー政策が転換しても、放射能の拡散は終わらない。東北・関東の住民は毎日少しずつ被曝し続ける。
 「3.11」は過去に属しているけれども、「3.12」はまだなにも終わっていない、始まったばかりです。被害の拡大が現在進行形であることを強く意識するべきです。

矢部さんは三号機の爆発時に息を呑むほど驚いたけれど、それからよく笑うようになったそうです。

 自衛隊のヘリコプターが水を投下したときは笑ったし、警察の放水車が出動したときはゲラゲラ笑いました。怒りながら笑うということがあるんですね。そうやって笑いながら、私たちは起きている事態をのみこんでいったのです。

私も同じでした。
ことが重大すぎ、事態のスケールが大きすぎて、それに対して人があまりにも無力で、
なのにヘリコプターの水の投下を本気になって念じている自分自身がただおかしくて、
夢の中で浮かれているような気分になったものです。

そのようなひりひりする擦り傷のような気分を率直に語ってくれたという点だけでも、この著者は十分信頼できるなと直感しました。
予感に間違いはなかったです。

そう、私たちの無関心の中でみえなくされているの3.12。
子供、原発労働や瓦礫処理や汚水処理に携わる労働者、
原発被害から逃れる国内難民、そして未来の地獄・・。

この「国内難民」という言葉に大変触発を受けました。
その中心には子どもを連れて西へ逃れる母親たちがいますが、
彼女たちはいわば「アンテルプレケール(不安定インテリ層)」。
分析力やリテラシーが高いのが特徴ですが、
何よりも「男だったらプライドが邪魔してなかなか踏み切れないことを、すぐに実践してしまう瞬発力をもっている」のです。
私も、福島や関東から京都に避難してきているお母さんたちの話をききましたが、
たしかに彼女たちの科学な分析力そして社会的な関係力はすごいと驚きました。
子どもを守ろうとする本能で、全存在をあげて潜在力をフル稼働させているからでしょう。
そして今はそうした存在をかけた力がなければ乗り切れないのです。

そのような人々が新しい集団を組織していくというのは、原発事故が逆説的に生み出した希望だと思います。
これまでの左翼運動や議会政治では実現できなかった、真に新しい運動です。

そしてそれを矢部さんは「日本人ではない者になる」という事態なのだといいます。

 「3.12」を考えるとき、私がある意味でとても解放的な気分になっているとすれば、それは、「日本人ではない者になる」ということの肯定的な力を感じているからだと思います。この力が、あの日私の背中を押して、被曝被害から護ってくれたのです。」

矢部さんは三月十二日に、娘さんを連れて、東京を脱出したそうです。
そのような人々はきっと、予想以上に多かったはずだと推測します。
政府を、日本を信じていたら、それほど多い「国内難民」は生まれなかったでしょう。

そう、3.12以前に多くの人が日本人であることから潜在的に身を引き剥がしていたのです。
そして3.12は、従順な日本人であることが、生命の危険をもたらすことになった決定的な日だったのです。
今や人々は日本人という実体のない虚構のくびきから、
野性の生命力を解き放ちはじめようとしているのです。
もちろんそれを押しつぶそうとする国家の抑圧もつよまるでしょう。
しかし負けてはなりません。

次、いつ起こるかもしれない大震災と原発事故。
複数の活断層の上にある原発さえも再稼働されようとしています。
私を含めた日本人も、日本人という古いアイデンティティから存在を引き剥がされているのです。
すべての日本人がもはや潜在的に外国人であるのです。
そのようないわば汚染の中からの蘇生の意識にこそ可能性があるはずです。
そこから、この国土に生きるすべての人同士の新しい連帯を模索していかねばなりません。

日本は一つなのだからという虚偽の共同性を押しつけることで
汚染された瓦礫をばらまいてはいけない。
長年愛してきた故郷だから、私たちは家族なのだから、という老人の郷愁によって
汚染地帯にとどまってはいけない。
少なくとも未来ある子どもたちだけは犠牲にしてはなりません。