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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

花の姿に銀線のようなあらがいを想う――石原吉郎生誕百年(『びーぐる』28号)

花の姿に銀線のようなあらがいを想う――石原吉郎生誕百年

                            河津聖恵

 一枚の栞がある。七宝かさねという技法で、螺鈿めいた銀箔の縁取りがされたその中央に、今一艘の船の黒いシルエットが目的地に辿り着こうとしている。興安丸、と記されている。一九五三年、八年間の抑留の後、石原吉郎を祖国へ運んだ引き揚げ船だ。栞の縁取りの硬質ながらも壊れそうに危うく煌めく銀線と、船の黒いシルエット。二年前舞鶴の引揚記念館で買い求めた栞は、その時の記憶も重なり、繊細ながら閃く刃のような切っ先を持つ石原のモノクロの詩世界を、はからずも不思議に象徴化しているように思える。

 舞鶴を訪れたのは、季刊誌に石原論を書くための「フィールドワーク」のためだった。帰還直後、彼地の引揚者収容所で石原は立原道造を読み、日本語との「まぶしい再会」を果たし、三十八歳で詩を書き始めた。その六十年後、私が訪れた舞鶴に詩人の痕跡は、当然ながらどこにもなかった。引揚桟橋は当時の場所に保存されていたが、藻の異常増殖でくすんだ緑色になった海は、拒むように不機嫌に沈黙していた。記念館に展示してあるスプーンや針などの、抑留者が監視の目を盗んで作った物品のどこか骨のような姿だけが、石原がエッセイに書いたラーゲリでの苛酷な現実を、繊く硬く証していた。

 親族に絶縁状を突きつけた石原吉郎には故郷がなかった。ラーゲリと本質的には何も変わらないエゴイズムの満ちていた戦後の日本は、石原の望郷していた祖国ではなかった。帰還後詩人は、シベリヤの河畔で「猿のようにすわりこんでいた位置」という、どこにもない場所に居続けたのだが、その「位置」から石原だけの生の時間が、煌めく銀線のように石原だけの死の時まで続いた。遺された詩はすべて、その孤絶した線の軌跡であり、今読む者が触れることは難しい。触れようとすれば美しく煌めき、線は死へ向かって帯電する。詩人は生を「断念」し続けることで、ようやく生きることが出来たから。

 「花でしかついにありえぬために/花の周辺は適確にめざめ/花の輪郭は/鋼鉄でなければならぬ」(「花であること」)。花の輪郭の煌めく線を想う。ふたたび戦争の黒いシルエットが動き出した今、「断念」するほどのものが私にあるのか。石原の「断念」に学んでなお、「あらがい」は可能なのか。詩が詩でしかついにありえないとしても。むしろ詩でしかありえないがゆえの銀線のような「あらがい」を、一輪の花の姿に想ってみる。