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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「紫陽」21号

竹村正人さんの詩「詩人は ──渡辺玄英氏に」に目が止まりました。全文です。Image646_3

詩人は
無知を純粋さと
取り違えてはならない
詩人は
判断停止を文芸と
取り違えてはならない
詩人は
見下ろすことを正しさと
取り違えてはならない

詩人は
勇気を安易さと
取り違えてはならない
詩人は
天秤を二元論と
取り違えてはならない
詩人は
下降することを肩入れと
取り違えてはならない

詩人は
自らを非政治的存在と
取り違えてはならない

あとがきに「『現代詩手帖』2010年1月号所収の渡辺玄英「ためらう指先の希望について」の202〜203頁を参照しました」とあって、
もしや、と思い、同月号をひらきました。
やはり。
忘れていたというより忘れようとしていた?
歌人の野樹かずみさんとの短歌と詩のコラボレーション『天秤−−わたしたちの空』への評でした。
少し過去の話で、むしかえすようで気が引けますし、少し暗い気持にもなりますが、
最近のブログ記事と関連するのであらためて。

『天秤−−わたしたちの空』は、昨年生誕百年を迎えた哲学者シモーヌ・ヴェイユへの
いわばオマージュとしての共作です。

戦間期の哲学者ヴェイユは、弱者に同苦しつづけた体験から、
根源的な不幸を被った人間が、無となって祈ることで
恩寵を呼び込む可能性に救いを見出しました。

そうしたヴェイユの思想や感受性を
私たちの現在や過去についての関心事をぶつけてみたらどうなるか。
貧困や差別や戦争や宗教というモチーフはどういう言葉を立ち上げてくるか。
それが共作の意図だったと思います。

渡辺さんの評を一部とりあげます。
「加害者や強者が悪であるという強固な思いが支配しているように見える。たいへん分かりやすい構図だが、被害者、加害者、強者弱者というものは、ある条件下のものであるはずであり、相対的なものであるはずで、そうした視点がとぼしいための硬直化がおこっているのだと思う。また、言うまでもなく、相対的な加害者も人である限り、人としての業苦の中にある。さらにいえば、人は正邪や強弱に分かたれるものなのだろうか。例えば、弱者の内部にも差別の構造が存在するように。人の持つグレーゾーンへの眼差しがとぼしいことも説得力の弱さをもたらしているのではないか。」
「それは善悪正邪の二項対立に回収されて、たとえば加害者の闇や、人の根底的な業苦を掬いきれないきらいがあるのではないか。」
とあります。

「加害者の闇」を理解せよ、といわれていたのでした。
その時もあれっと思いました。今あらためて読むと
渡辺さんのいう構図だと、被害者がどこにもいなくなることに気づきます。
相対的というのは分かりますが、
いわばどちらもありの相対主義であってはいけないと思います。
中心はあくまで被害者なのです。

加害者にも闇がある。
それはたしかです。
しかしそれは、被害者が永遠に与える闇であるはずです。
その闇は、被害者への果てしない責任に、加害者が自分で自分を責めさいなむ地獄です。
そしてこの世にはそれ以上の闇も地獄もありません。
犯罪者が、自分の犯した罪の深さを知って、苦しみつづけ、
それでも永遠に被害者にあがなうために生きていく以上の刑罰はない。

石原吉郎のいう
「「人間」はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない」とは
まさにそうした無限責任を引き受けた加害者の苦しみを永遠に深めながら、
存在を錐揉みしながら、
ようやく人間は目覚めうるのだということだと思います。

加害者の自己正当化としての゜加害者の闇」ならば、それはむしろ光でしょう。

しかし渡辺さんだけではありません。
これまでのこの国の詩や文学がどこかで
正当化のための「加害者の闇」に重きを置いてきたのは事実です。
浅薄にいえばアウトローがかっこいいというような何かがそこにはある。
戦後詩人の多くも、そういう意味では無傷なところで書いている
といっていいと思います。
自分が加害者であるという意識があまりに弱いのです。
人間はみな闇という業を背負わされている人間なんだ、
加害者だってそうだ、いや加害者だからこそそうでありうる。
だから本当に加害者なんていない、
みんな人間や時代の闇の被害者なんだ、
という通奏低音を私はどうしてもきいてしまうのです。
「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という言葉も思い出すような。

これまでこの国で、私たちに誠実にアクチュアルに
闇や罪を名指してくれる力を持った詩は
そして私たちがそれらをみつめる勇気を与えくれる作品は
ほとんどなかったといえます。

そして問題なのは、「加害者の闇」に価値をおくスタンスからは
竹村さんの詩にあるような
詩人=「非政治的存在」というとりちがえ、さらには
詩人とは「非政治的存在」であってしかるあるべきだ、
という倒錯した論理が容易に生まれてきてしまうことです。
政治的とは、社会問題に関心を持つという意味でいうのですが、
つまり被害者=弱者に中心をおく視点です。
ヴェイユの比喩にならえば
天秤の一方の秤に被害者=弱者をおけば、無限に秤はそちらに傾くはずです。
この無限ということが大切です。
この天秤は、人間誰しもがそうであるところの
加害者の中にあるものですから。

一方で「加害者の闇」重視のスタンスは
非政治的ともいいがたいのではないでしょうか。
「世の中はそういうもんなんだよ」「人間はみんな闇を抱えているんだよ」
「時代が悪いんだよ」というような
この国の政治家の開き直りにもあるシニシズムにも
それはとてもよく似ていないでしょうか。