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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

朗読考(二)

私は朗読のテキストに、アクセント、イントネーション、息継ぎなどのための
音符記号のようなものを付けます。
文のわきに点が打たれ、線が入れられているので
はためには日本の伝統芸能の楽譜のようにも見えるかも。

よくわからないのですが
私は自分の日本語が
透明なギプスをつねにもとめている気がしてなりません。
たとえば朝顔の蔓が棒をもとめて巻き付くように
そもそも自分の日本語は
いわば近代日本語のギプスを鋳型として生まれたもので
だからこそ親であるギプスをもとめつづけているというような・・・。

なにか分かりがたいことを書いているのかもしれません。

最近、私に食い入ってきた言葉がありました。

「このようにも明るい音だけをえりすくったかのような日本語の基本母音、この音韻の間口の狭さというのは、いながらにして他の響きを寄せ付けない、日本人の内在的な純潔主義の下地ともなっているように私には思えてなりません」

金時鐘さんの「私の中の日本語」の一節です。

「明るい音だけをえりすくったかのような日本語」
これはまさに私の日本語ではないか
驚きながらそう思いました。

それが
「日本人の内在的な純潔主義の下地ともなっている」
というのにも衝撃を受けました。

つまり私のたましいまでもが
近代日本語つまり国語をギプスとしているのか、と。

日本語の基本母音は
曖昧な母音を排除して成立しているのですが(あいうえお)
その排除の意識が、じつはそれで語る、書く私の意識をも規定しているのではないか。

すると、日本語というものを意識して朗読しようとする私は
ますます自分を狭めていることになっていないか。

そんな風にも思うことがあります。

しかし、逆にそうした日本語の純潔主義というのは
意識的に曖昧な発音をしたり、実験的な発声をこころみることで
逃れられるものなのでしょうか。

朗読が、書かれたものを読む、というものであるかぎり、つまり
書かれる際にすでにうごいている喉のうごきを変えない限り
私たちが根深く強いられている「純潔主義」は
越えられないのだと思います。

そしてそれは、むしろみずからの日本語の
「純潔主義」にあえて向き合うことでしか
そしてその「純潔主義」をのっとるような形でしか
突破できない気がするのです。