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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

ふたたび「在日コリアンの戦後」から

この社会には
どうしても他者に憎しみを感じなければ生きていけない人々
がたしかにいるようです。
昨日、テレビや新聞で見聞きしたことに、少し気持が沈みました。

私たちはふたたび朝鮮学校の成り立ちを
想像力をもって、思い返さなくてはならないでしょう。
国際情勢などに乗じた誹謗中傷が傷つけ曇らせつづけている
歴史に対する私たちのまなこをみひらいて。

7月25日放映されたNHK「在日コリアンの戦後」の
朝鮮学校の沿革を紹介した部分をまとめます。

それは映画『朝鮮の子』のシーンから始まりました。
その映画は在日朝鮮人
生活の場で自主的に始めていた民族教育の様子を描いたものです。
ウーリーハッキョ!ウーリーハッキョ!
と楽しそうに声を合わせる子供たちの姿は、
学びの喜びにみちていました。

日本の敗戦直後から、
朝鮮人たちは全国の寺や民家で、
朝鮮語などを子供たちに教える教室を作っていきました。
朝連(朝鮮総連の前身)は
自分たちの言葉を取り戻し、
植民地時代の皇民化教育を拭い去ることが、
真の解放につながると考えたのです。
教室を整備し、全国に500を越える学校を作っていったのです。
(当時朝鮮学校で使われていた教科書も映されました)
植民地時代の日本の教育によって、
母国語を知らない世代が育っていたからです。
初めて学ぶ朝鮮語
カタカナで発音を振り、学ぼうとした子供たち。
当時教科書を編纂した朝連の教学部長だったとても高齢な方が
次のように語っていました。
地理の教科書をみずから筆をとったそうです。
「朝連は、子供に教えることから仕事を始めた。必然的にそうなった。戦前子供たちがあまりに日本の学校でいじめられたものだから、戦争中から学校に行かなくなっていたんですよね。だから戦後朝連の組織が出来ると、子供たちがそこに集まってくる。そこでその子供たちのために、日本全国に学校を作ることが私の仕事でした。寺子屋みたいなことだ。」
この方があまりに高齢のために
泣いているのか笑っているのか分からない表情で語っていたのが
心に残りました。

60年振りに発見されたという
民族学校が作られていく様子を記録した貴重なフィルムも紹介されました。
先生と共に、子供たちが総出で運動場を作っている。
子供たちは近くの川から砂利を運び、地ならしをしている。
親たちが働く姿もある。
大人たちは、力がある者は力を、お金がある者はお金を、知恵のある者は知恵を、を合い言葉に、自力で教育の場を作っていったのです。