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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸「瓦礫の中から言葉を」を見て(一)

今朝放映された辺見庸さんの番組「瓦礫の中から言葉を」を見ました。

その一時間、私は、誰かから聞きたかった、誰かに語られたかった、そして私自身もどこか深みで語りたいと願っていた言葉を聞いたのだと思います。

辺見さんの言葉は、辺見さん固有のものでありながら、なぜか遥かからどこかにあった自分自身の言葉のように思えてなりませんでした。そう思った方は多いのではないでしょうか。

もちろんそれは、辺見さんの口から聞くまでは、その美しい、あるいは的確な表現などもちろん思い至らず、また聞きたかった、ということさえ忘れていた、あるいは忘れさせられていたというたぐいの言葉なのでした。

傷つけられることで癒される言葉。つねに危うく甘美で鋭い、私たちの世界の表皮の痛い真下を目覚めさせてくれる言葉。その真実は、私たちの痛いいのちのように、ただそこに厳然とあるだけで、声高に何も主張することのない言葉。しかしだからこそ、深く、切なく、ゆたかな言葉。

そう、この番組は、魂を本当にゆたかにしてくれた一時間でした。震災から今まで、流すことを忘れていた真実の涙が(これまでは涙を強いられてきた気がします)、我知らず深くからこぼれおちました。

番組で映し出された写真にも、目を奪われました。一般の報道の写真のように取捨選択や虚飾のない、石巻の友人が辺見さんに送ってきた写真です。そこには、悲劇のあらわな姿がありました。一般の報道の映像は、死の匂いを消していますが、それらの写真の瓦礫には、その下におしつぶされている人間の気配が、たしかにあったのです。

それらの写真から、3.11とは、何万人もの生々しい死を、飛び散った血や手足といったかたちの死を、私たちがトラウマとして突きつけられ、いやがおうでも直視し、そして大きな悲しみを引き受けることになった時点なのだ、と気づかされました。本当は、この悲劇とはそのような事態なのです。

辺見さんは言います(箇条書き風ですみません)。

3.11は、根源的な認識論上の修正を、改変を迫っている。

あの光景は宇宙的規模で考えてみれば、宇宙の一瞬のくしゃみのようなものだった。
だがそのくしゃみが人類の破滅に繋がったのであり、人間を簡単にモノ化したのである。それは恐怖でもあり、恍惚でもある、見たこともない荒ぶる光景だった。

かつてアドルノが、アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である、と言ったが、
3.11以前の社会と文化は、これまでと同じであっていいのか?
この残虐と殺戮を通さないで、詩を書くことは出来るのか?
まだ、ただ美しい詩を書くのか、社会や世界の悲劇を一切見ない真綿の中で?

結論はあきれるほど単純である。

「人が人に対して誠実であること」、あらゆる修辞をそぎ落として「誠実であること」。
カミュの『ペスト』に出てくる医師のように。

安寧の中で悠々と演じてきたことを今できるか? 家もなく食料もない中で、弱い立場の人たちにみすがらの物を分け与え、共に生きることができるだろうか?

私たちが今担わなくてはならないのは、国でも民族でもなく、個の苦しみである。
真価が問われているのは個なのである。
時がどんなに経ったとしても、私は痛み続けなくてはならない。

有能だから、若いから、社会の役に立つから、人は救われる、というのであってはならない。
放射能の中に置き去りにされた老人ホームの老人たちは
自分たちが死ななくてはならないと思っているだろう。
しかしそうした人々こそ、救われるべきではないだろうか?──

こうした辺見さんの言葉と声を、私はいつしか自分の眼の辺りで聞いているのが分かりました。
つまり自分の一番敏感な突端が、共鳴していたのです。

それに対し今、隣室のテレビから、大阪府知事の「役人天国」をどうこうしようなどという、雄叫びが聞こえています。
詩人の言葉と声との真逆さに、ぞっとします。
私たちの社会は橋下知事のような非人間たちの言葉と声に、どれほど苦しめられてきたことでしょう?!

まだ途中です。明日また続きを書きます。