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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

詩にとって熊野とはなにか(三)

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私が熊野を訪れるようになったのは、紀州白浜町富田に住む倉田昌紀さんからのお誘いが きっかけでした。その経緯ですが、2007年9月に家に突然小包が届きました。小さく重たい箱を開けてみると、そこには私の詩集数冊と手紙とお菓子が入っていました。手紙には、自分が私の詩の読者であること、詩集に署名と何か言葉を書いてから送り返してほしいとありました。倉田さんのお名前は、じつは詩集をすでに頂いていて、見知っていたはずです。しかしそのときは混乱していたせいか思い浮かばず、知らない人から来たものとばかり思い、半ば躊躇もありましたが、あまりにも不思議で虚をつかれた私は、すぐに手紙に書いてあった通りにして送り返しました。すると小包みが到着してすぐに倉田さんからお電話があり、丁寧な御礼と自分の好きな紀州に来て下さい、というお誘いの言葉を何度も言って頂きました。このことは詩集『新鹿』の「あとがき」にも書きましたので、引用します。

「 「紀州へ来て下さい。僕の好きな紀州へ。」二〇〇七年九月、新宮の倉田昌紀さんは私をそう誘ってくれた。不思議に明るく懐かしい電話の声で。「僕の好きな紀州へ。」――それは声の主が生まれ育ち、今を生きる紀州へのオマージュであると同時に、紀州という煌めくトポス自身が上げた歓喜だったのではないか。「キシュウ」という澄んだ響きが、私の「うつほ」をかき鳴らした。「僕ノ好キナ」という他者の純真な欲望が、水の泡のごとく私の中に拡がった。それから一ヶ月後、時空をワープするように、透明な秋の光がみちる新宮駅に降り立ち、葉巻を咥えセカンドバッグを抱えて改札口に立つ人と握手を交わした。以後現在までで四度となる私の「紀州・熊野フィールドワーク」の旅の始まりである。」

今思ってみれば、そのときの不思議さとは次のようなことでもあったかもしれません。

恐らく私は、人がそこで生まれてそこで生きてつづけざるをえない土地を、一般に人は嫌悪したりするのが普通ではないか、と思いこんでいたらしいのです。私自身もまた十八歳まで過ごした東京郊外が当時はとても嫌いでした。母親の過剰な愛憎から逃れるように、京都にやって来たのだと思います。京都がいまだ中世で、つねに寺院の鐘の音が響き渡る、五重塔のシルエットが夕暮れに浮かび上がる西方浄土であるようにも思えて。
だから、今も昔も、自分の内側に外側に、いやがおうにもたえず映り込み、色一つ音一つ逃れられない故郷を、どうして愛することなどできるのか。そのような故郷とは一体何か、そこに何があるのか──いつしか私の無意識は誘われていました。偶然にも次の月の十月の連休にどこかに行こうか、と夫と語り合っていた矢先でした。