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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

ミゼレーレ

ふと最近、詩とは胸で書くものではないか、と思ったりします。Image480_2
感覚的実感的な言い方ですが、頭から始まる言葉は、未熟で不安定なまま、あてどない浮遊物となって、漂う気がする。
あるいはともすれば頭の中で硬直化し、世界を上から目線で見下ろしてしまうかもしれない。
けれど、あるときから私には、詩とは胸からたちのぼる、あるいはあふれる言葉なのだと思えてきました。
その具体的なきっかけは、やはり詩集『新鹿』の素材となった熊野・紀州体験だったと思います。しかしそれはもっと前、大病を二度経験したことから始まっていた気がします。今、私の詩のありかは、頭から、眼から、のど元から、少しずつ下がり、ようやく胸という人間の魂があるはずの位置に降りてきたところかもしれません。
詩は、知や情報へ誘惑されてこの位置より上に行ってはいけない。
また、みずからを特別なものとして、頭の中で自閉してもいけない。
詩とは、結局はみずからの魂のことにすぎないのではないか。
あるいは逆にいえば詩は、魂そのものでありうるのです。
魂そのものであるほどに、自由でありかつ誇り高いものであるべきではないでしょうか。
だから他者にまっすぐ伝わる言葉をためらったりおそれたりしてはいけない。
詩人とは、七色が光となるように、胸の複雑さをたった一つの言葉へと賭ける勇気と努力を、詩という次元において持ちうる、あるいは持つべき者ではないでしょうか。

私は今の現代詩が他者に対する恐怖から頭の中の詩にしがみついている気がして、仕方がありません。

写真は彫刻家中村晋也写真集『Miserere Mei─命よ。』から。
人間に自分に絶望しそうな時、私はこの写真集をめくります。
この作品はフォーレのレクイエムに触発された「ミゼレーレ」シリーズの一つ。
三重県出身のこの作家はその造型において、ヨーロッパの巡礼の姿と、熊野詣での巡礼者を重ね合わせているのだと、同県の詩人津坂治男さんが「軌跡」55号で書かれています。