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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

東柱を生きる会(三)

Th_3会は金清子(キム・チョンジャ)さんのカヤグム演奏から始まりました。
朗読はまず「序詩」。
韓国からの留学生の朴僖珍(パク・ヒジン)さんと中島和弘さん。
朝鮮語と日本語による、混声の掛け合いです。
僖珍さんの暗唱の朝鮮語は、
不思議な音楽のようでした。
お二人の「序詩」を静かな前奏として、
二番手は丁章(チョン・ヂャン)さんは、ご自身の訳で「十字架」と、Th_5_3
自作の「はらからの誓い」です。
丁章さんは在日三世ですが、
日本の公立校に通っていたため、
朝鮮語は、二十歳になってから独学で身に付けたそうです。
その辺りの様々な葛藤は
エッセイ集『サラムの在りか』(新幹社)で読むことができます。
在日というふたつの言語のはざまで
詩によって絶望から真の希望へと目覚めていく
魂の成長を私たちは知ることができます。
「はらからの誓い」は
1996年夏に東柱の墓前にたむけたオマージュ。
そして次は私。
以前このブログでも紹介した2007年8月に「文藝春秋」に掲載した作品です。
解説は「朝鮮新報」の記事を配布したので、
ほとんど省きました。
それから愛沢革さんの講演「尹東柱の「故郷」と「他郷」」。
尹東柱の「故郷」、
今は中国の延辺族朝鮮自治州にある龍井と明東村の
2009年の写真をスライド上映をはさんでの小講演です。
愛沢さんの話も画像もあまりにも面白かったです。
最後の金時鐘さんの話にも出てきたと思いますが、
東柱の「故郷」が
自民族にとっての「他郷」であったという事実を見落としては
彼の詩を本当には理解することはできないということ。
それが結論です。
その「他郷」でもある「故郷」の
「今」の風景は鮮やかでした。
かつて私たちが戦後直後か戦前かに
いやもっと遙かな共同体の時代に
夢のように見知っていた「原風景」。
明東村の懐かしい土の道。
ゆたかに咲き誇るコスモス
復元された瓦屋根の東柱の生家。
2009年にはもうなかったという
それ以前に撮られた従兄弟モンギュの荒れ果てた家。
中国資本が入り変貌しつつある
夜も輝く龍井の町。
東柱が亡くなって65年が夢のように過ぎても、
たくましい人間は「故郷」にいなくなっては生まれ
そこに喜びと悲しみは続いているのだと
愛沢さんの言葉と画像ではっきりと知らされ
なにか深く安堵していったのでした。
愛沢さんの話は後半「他郷」が五分位の駆け足で残念でしたが、
次回のお楽しみがふえたというもりです。
つづいて質疑応答、休憩。
それから今度はカヤグンの伴奏付きの朗読第二部です。
(すみません、この辺りから主宰として残り時間が気になりだし、
またチマ・チョゴリの薄着で体が冷え、やや意識が現実から離れて、
その時点ではとても感銘を受けていたはずの話の内容をほぼ覚えていません。)
竹村正人さんは「肝」。
しっかりと一つ一つの言葉が
こちらに着地するような朗読です。
この「肝」には私の読んだ詩のタイトル「プロメテウス」が出てきます。
二番手は阿曾都さんの「道−−再び巡り会うために」。
東柱の詩に出会ったことに触発されて、ご自身の体験から生まれた詩。
雰囲気を?む立ち姿でとてもいいオーラがありました。
三番手は陸橋容子さんの「たやすく書かれた詩」。
陸橋さんもとても本質的な詩の核をつかんだ話をされていました。
「人生が生きがたいものだというのに/詩がこれほどもたやすく書けるのは/恥ずかしいことだ。」と書いたのは、東柱が本物の詩人だったからだ、と。
最後は入江恵子さんの「ろうそく一本」。
はっきりとした朗読と
話す時にまっすぐ前をみつめているのが印象的でした。
目の前でろうそくの炎が揺れ
今「供物の香り」を嗅いだという詩の体験を話されました。
そして会のラストは
金時鐘さんの「自画像」の朗読というビッグ・サプライズ。
会の直前に私が不躾にも速達でご招待状を差し上げたところ、
ご用事があったにも関わらず
万障繰り合わせて駆けつけて下さったのです。
待ち合わせた地下鉄の出口で
奥様と二人で待たれていた姿を見た時、
本当に涙が出る思いでした。
詩のために、東柱のために、そして今の社会へ一石を投じようとする者たちのために
出来ることがあればなんでもするという
(以前対談集でか「動けるものが動くんや」という言葉を印象深く残っています)
時鐘さんの海より深い真心は
東柱の魂のあり方そのものです。

「とつとつした日本語」で
読まれていく「自画像」に
本当に井戸に映る深い景色が視えてきました。
それは東柱の魂の風景でもあり、
時鐘さんの思いが存在しつづける「底」そのものでもあるでしょう。

「井戸の中には 月が明るく 雲が流れ 空が広がり
青い風が吹いて 秋があって
追憶のように 男がいます。」