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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

歴史学研究会の抗議声明文を読む(一)

歴史学研究会の抗議声明文で、私が立ち止まったいくつかの箇所を、ゆっくりと読んでいきたいと思います。

歴史的に見ると、朝鮮人の民族教育に対する日本政府の差別政策は、100年にわたり形を変えながら続けられている。その淵源は、いうまでもなく植民地支配下での民族教育抑圧にある。

「植民地化での民族教育抑圧」の具体的な姿は、
日曜日(6月20日)のNHKの番組「プロジェクトJAPAN 日本と朝鮮半島」というシリーズの
「第三回 戦争に動員された人々 皇民化政策の時代」
で見ることができました。

日本は朝鮮半島の人々を、戦争に動員するために
教育や制度を通し、急速に徹底的に同化しようとします。
言語も氏名も宗教も、日本人へと同化させようとした。
国語常用。創氏改名。宮城遥拝。神社参拝。皇国臣民の誓詞。
日中戦争や南方の戦線が泥沼化し
日本人の兵士が不足する中で
同化には相当時間をかけなくてはならないという意見もあったのに
日本は朝鮮人の兵士を育成する政策を強行します。
兵士というのは武器を持つ訳ですから
抗日の思想などなく、徹底的に天皇に従順でなくてはならないし
また、兵士同士の意思疎通のために日本語は堪能でなくてはならない。
だから戦局が悪化する中、朝鮮人を兵士にするために
かれらを急速に、しかも徹底的に、日本人へ改造する必要があったわけです。
しかしこれほどの徹底した同化政策は世界でもまれにみるものだそうです。
(その異例さが、今の朝鮮学校に対する政策や態度にもつながるのでしょうか)

]1944年に朝鮮人に対しても徴兵制が施行される。兵役こそが朝鮮人を一人前の日本人にするというように喧伝した結果。

南方の密林で他国のために犬死にしたり
特攻隊員として死んだ朝鮮人もたくさんいた。
しかも、戦後そうした人々は、対日協力者として非難されました。
何と苛酷な運命を日本は与えたのでしょう。
この番組で、植民地主義というものの凄まじさを実感しました。

なぜあんなことをしたのでしょうか。
そしてあんな凄まじい植民地主義はやすやすと終わるわけもない。

植民地主義というのはひとつの制度であり、その制度を支えるイデオロギーである。そのイデオロギーを無言のうちに支持する多くの人たちの文化や思考方式とかの、その集積です。これに終わりを告げるということは、その制度そのものに終わりを告げることであり、その制度を支えていたイデオロギーや文化を乗り越えるということです。」(徐京植『秤にかけてはなならない−日朝問題を考える座標軸』

つまり植民地主義、あるいは差別とは
制度として廃止するだけでは足りなくて、
その制度を支えていた、つまり
植民地主義を当たり前だとしてきた考え方や文化を乗り越えた(=つまりきっと、それらの存在をないものとするのではなく、まずは認めて、感じたり考えたりして、自分自身と共に変化させていく)ときに初めて
それは終わりを告げる、
あるいはもう繰り返されることはない、とようやく思えるものなのです。

日本は植民地主義をどれだけ克服したといえるのでしょうか。
戦後65年経って、制度においてはたしかになくなっています。
しかし一向になくならない差別や偏見、そしてそれにもとづいてまたうごめきだした排外主義など、
つまり考え方や文化の次元では、
植民地主義がじつはまったく克服されていないことに、気づかされます。
空気のようにみえない植民地主義
私もまた日々呼吸してきた一人でしょう。
それはしかし、どんな形で、私の血となり肉となっているのでしょうか。

今みえているものの、あるいはここにいる自分の自明性を疑わないこと。
今私がここにいるのがなぜか、
私がどんな歴史や関係性に編まれた存在としてあるのかを問わないこと。
そんな日常的な意識のあり方もまた、植民地主義のひとつの現れなのかもしれません。

つまりたとえば
アルチュール・ランボーのいう「私は一個の他者である」というテーゼを
感じつくし、考えつくすことが今必要なのでしょう。
詩人として、植民地主義の克服へとつなげるために。あるいは言語における植民地主義の克服こそが、詩なのではないでしょうか。