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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

現代詩手帖特集版『シモーヌ・ヴェイユ─詩をもつこと』

現代詩手帖特集版『シモーヌ・ヴェイユ─詩をもつこと』(思潮社)が出ました!Vei
生誕百周年である2009年に企画され、同年に刊行予定でしたが、
予定をかなり過ぎての、けれどそれだけに満を持しての刊行です。

今村純子さんは刊行のコンセプトを以下のように書いています。
「二〇〇九年は、シモーヌ・ヴェイユ生誕百年の年であった。シモーヌ・ヴェイユという『特殊』においてかぎりなくその『特殊』を離れてゆく彼女の言葉は、読者それぞれの現場で確実に花開くものとなろう。とりわけ、生きる希望を見失いかけた人々が本特集版を手にとり、それぞれの心のうちにまさしくヴェイユが述べる『詩』を灯しうるならば、そのことはまた、言葉そのものの奏でる詩が真にそれぞれの心を震わせ未来へと向かわせることにも連なろう。わたしたちの生も、芸術と同様、創造にほかならない。それゆえ、ひとりの人間の実在が確かであれば、その『存在の美』をもって、他者の存在を震わせ、覚醒させる、倫理の地平を切り開くことにもなろう。」(巻頭言「詩をもつこと」)

2009年の2月だったか、今村さんとこの特集版について喫茶店で語り合ってから
もう3年になります。
あれから世界にも日本の社会にも本当に色々なことがありました。
私自身も朝鮮学校の高校無償化除外の問題をきっかけとして
在日朝鮮人に降り注ぐ無限の「重力」(ヴェイユ)を知りました。
またその「重力」がこれまで日本人である私にも別な形と強度ではあれ
降りそそいでいたことも実感しました。
3.11の暴力は
この国が何とか取り繕うとしてきた「不幸」をむきだしにしてしまいました。
原発と権力者のエゴイズムからもはや止めどなく流れ出る「悪」は
人の身も心も汚染し続けています。
どうにもならない閉塞感と無力感が拡がっています。
しかしこれからこそが勝負なのだと思えます。
ヴェイユは「脱創造」と言いました。
難しい概念ですが、「ひとは捨て去るものしか所有しない」という彼女の箴言に通じる、賭けのようなアクロバットな蘇生だとすれば
そのような「脱創造」はこの社会に可能なのでしょうか。
可能ならばどのようにして実現できるのでしょうか。

この時点でこの特集版が出たことには
やはり必然性を感じます。
ヴェイユを初めて知る人にとっても、決して取っつきにくい本ではありません。
殆どの原稿が3.11以前に書かれたものですが、
それぞれのヴェイユ体験を考察する中で
今の事態の淵源である「不幸」を炙り出しています。

なお、余り知られていませんが、ヴェイユは詩人でもありました。
私も「何よりもまず、詩人でありたい─詩人としてのシモーヌ・ヴェイユ」を書いています。
ご一読願えればさいわいです。

「私たちはときに、自分の本当の名前のように、あるいは人間の美しさそのものに感じ入るかのように、ある人々を「詩人」と呼ぶ。実体というよりもこの世の言語の支配を逃れえた、透明な影のような人々を。この世の水際で、「〈わたし〉と言いうる力」(「〈われ〉」『重力と恩寵』)を、滅ぼしつづける人々を。詩は、そのとき一瞬、空虚にかかる飛沫の虹であるだろう。だが、いつしか「詩人」に揶揄さえこめられなくなって、久しい。しかし「詩人」は死んでなどいない。例えばシモーヌ・ヴェイユのような生き方をした人物が詩を書いていたという事実は、私たちに無限の励ましを与えるのではないか。私たち自身にも、無限の責務を同時に甘美に負わせるようにして。
 ヴェイユと詩。その意外でもあり必然でもある結み合わせを思考することは、時代に押しつぶされてもなお言葉を信じようとする、詩人という永遠の存在の本質に迫ることでもある。」