今日は1933年に虐殺された小林多喜二の命日です。
京都は寒さはまだ冬のものでしたが
日差しは確実に春を感じさせる明るい一日でした。
それだけに多喜二の凄惨な死の過程を想うと
つらい気持になりました。
じつは一ヶ月ほど前になりますが、
1月26日から28日まで小樽へ行ってきました。ツイッターを介してこの地の詩人と知り合ったことが
今回の訪問の機縁でした。
滞在中「小樽詩話会」の方々ととても忘れがたい交流もすることができました。
そして
この町には多喜二を心から愛する少なからぬ人々がいることを知り
とても嬉しく
また心強く思いました。
命日の今日から少しずつ書いていこうと思います。
小樽は四歳の時から多喜二が暮らし、東京で死ぬまで愛し続けた故郷です。
彼の作品の舞台の殆どは小樽です。
私が着いた時、小樽は大変な雪でした。
北海道でも小樽は雪の多い町だそうです。
ホームに降りたった時、粉雪がはげしく舞っていましたが、
その雪のこまかさ、間断のなさに、関西から来た私は目をみはりました。
ひたむきにただしんしんとふりつづける・・・
その永遠のような白さ・・・
それは人にとってはどこか耐えがたい明るさでもあって。
しんしんと、ただしんしんと、
見つめているこちらを半透明の人影にしてしまうような光景でした。
あなたは、北海道の雪を知っているだろうか。それは硝子屑のようにいたくて、細かくて、サラサラと乾いている。雪道は足の下でギュンギュンもののわれるような音をたてる。そして雪は塩酸に似て、それよりはもっと不思議な匂いをおくる
何と美しい文章でしょうか。
雪の痛みと美しさと懐かしさに、体中を甘美にしめつけられているような。
1930年12月6日、
原まさの(泉)に送った手紙の一節です。
今回は見られませんでしたが、これを刻んだ碑が堺町通りにあるそうです。
この一節を読んでも分かるのは、
多喜二が鋭敏な詩的痛覚と聴覚と嗅覚を持っていたことです。
戦前の日本を代表するプロレタリア作家であり、
特高によって虐殺された―
この作家についてはいつもそのように紹介されますが、「虐殺」のインパクトが強いだけに、多くの人はそれだけで素通りし、深く知ろうとしないのではないでしょうか。
私も今回小樽滞在をきっかけに私なりに読み込んでみて
作家がじつは素晴らしい「詩人」だったことに新鮮な驚きを抱きました。
ぼうぼう・・・・・・
燈りもさびしい留守
静けく・・・・・・低ーーく
港の夜更
独り室ぬちに聞くーー汽笛
あゝ私の懐かしい揺籃よ
そして淋しい子守歌よ
私はそれの枕に
その音律に
遠い昔の私を想う
啄木を愛し、短歌を作り始めていた16歳の頃の詩「揺籃」の冒頭の一節。
ここでうたわれているように
小樽の「汽笛」に「揺籃」されて
多喜二は作家として成長していきました。
1907年
秋田から出てきた多喜二一家が居を定めたのは
線路際の家。
多喜二が四歳の時。
何度か近くに転居したようですが、
汽笛は多喜二の魂をいつも優しく懐かしく包んだのでしょう。
多喜二は銀行に就職してから本格的に作家の道を歩み始めますが、
あの『蟹工船』も
仕事が終わった後、疲れた「赤い鰯のような眼」をキラキラさせて
朝の汽笛を聴くまで書いていたのでしょう。
多喜二にとってまさに母胎と言える小樽という町。
明日から多喜二のゆかりの地を中心に写真を紹介していきたいと思います。