■11月21日付京都新聞朝刊■
詩歌の本棚(新刊評)
河津聖恵
現代詩は、その名の通り時代に吹き曝されるジャンルだ。短歌や俳句には、良くも悪しくも定型や伝統がもたらす、時代を超越した虚構空間がいまだ存在するはずだ。作者はそこを足がかりに現実の混沌と冷静に向き合うことも出来るのではないか。それに対し定型のない詩は、外部の混沌を直接的に反映しやすい。現実との距離のなさが、言語上の華麗な混乱や白熱したエクリチュールを生み出す一方で、その直接性に身を任せすぎれば、現実を押し返す虚構の力が失われる危険も当然出てくる。
この八ヶ月、詩人は現実の混沌にうろたえつつ、またはあえて事実に即しながら、悲劇の痛みを描いてきた。だがそろそろ詩固有の虚構の力を発揮することで、悲惨な散文ともいえる終末的光景に向き合うべきだ。詩は悲劇を、神話的及び宇宙的深さから汲み上げた意味やイメージによって、主体的に押し返さなければならない。
名古屋哲夫『1(いち)』(書肆青樹社)が向き合うのは、死というよりも「生命の重さ」そのものだ。死を予感しながらも、死という抽象的な観念はどこにもない。「持国天」に踏みつけられる「邪鬼」のように、刻々と重みをます生命をしなやかに押し返している。血を「狂気の水」と捉える次の箇所に、詩的筋力の強さを感じた。
「血は一パーセントの固形物と/あとは水だという/(二連略)/血は/狂気の/水であろう/普段の力では/出せない/土壇場を呼び込む/一パーセントの/固形物の/助けを/かりているとはいえ/水にも/その一端の狂気が/脈打って/波打って/体中を/まわっている」(「水と狂気」)
��部勝衞『のざらしの唄』(土曜美術社出版販売)は、「ポロ」という虚構の存在を設定する。それは敗戦の衝撃によって「襤褸」と化した自分自身であり、また現実に流されそうな自分を叱咤し、詩という原点を思い出させる超自我的な分身でもある。こうした主体の二重化は、詩の空間を膨らませ、時間の流れを解き放つ。特に連作「死者の唄」は秀逸。リルケの「世界内面空間」を想わせる、生死を痛切に貫く時空と、生者の側が思いを寄せないことで生じる死者との断絶をうたっている。
「コトバ/これが/生者の帝国と死者のいない死者の世界との国境である/そして/この白昼の暗黒の光の中で/帝国のコトバに/解明されるべき死者のいない死者の世界のコトバは/いまだに何一つ翻訳されず 解読されていない/孤絶した死者のコトバは/今や空しく虚空をたださまよう/理解し 和合しあうべき死者と生者のコトバには/無限の時空の深淵が横たわり/何処の図書館にも死者のコトバの集積もみられない/生者の死者への呼びかけにも何一つ応じられることもない」(「死者の唄」(1))
北原千代『繭の家』(思潮社)では、現実の孤独の痛みを、虚構としての孤独に昇華することに成功している。「開かれた繭作り」とでもいうべき一集。リルケの「薔薇の内部」を想わせられた。
「破壊をもたらすかもしれない しろがねのキイを/くらいところにあてがう//さしこむと 奥のほうで やわらかに/くずおれるものがあった//お入りなさい/声は言った//無調音楽の階段を/ころがりおちていくのは/棄てたキイ それとも/眠りにおちていくわたし//孔雀のえりあしに うでをからませる/なつかしく はじめての匂いを嗅ぎながら/あおむけに 咲いてしまうかもしれないとおもう」(「鍵穴」)