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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

詩という「虚構」について

先ほど「新鹿(一)」をご紹介するとき、
「詩の主体として私は、このように旅の時間を「虚構化」しました。」
と書きました。
どうしてそう書いたのか、
気になったので考えてみます。

「新鹿(一)」は実際の体験を時間の経過のままに書いていますが、
体験そのものではありません。
「体験」を詩によって「虚構化」したものです。
実際の体験はもっと平凡で散漫な瞬間ばかりだったはず。
疲れたなあとか、早く着かないかなあとか。
時には「木の間を見え隠れする光がきれいだなあ、詩に使えないだろうか」
などと思ったでしょうけれど。
もちろん旅の時間ですから
非日常な気分ではあったでしょう。
けれどそれらの時間を詩にするには、
あるいは記憶を詩へと浮上させるには、
「虚構化」が必要でした。

「虚構化」とは
私たちがさまざまな次元で無意識的に意識的に行う
「現実」に対する操作です。
「嘘」に近いようで
もっと何か、人間臭くないもののように思います。

しかしそもそも「現実」とは一体何でしょうか?

日常という現実もまた
一つの虚構化の結果ではないでしょうか。

いつも私たちは
何かを意識して生きて感じて行動する。
そのこと自体が「虚構化」ではないか。
すると私たちが「本当の現実」を体験するのは
とても難しいのではないでしょうか。

私の新鹿体験という「現実」もまた
それ自体すでに一つの虚構であり
こうしてブログに綴るのももちろんそうです。

しかし「現実」とはいったいなんでしょうか?

それは
まったく窺い知れないものかも知れません。
「今ここ」で本当は何が起こっているか
私たちが行うこと語ることが
どんな意味があるどんな出来事なのか
私たちは決して知ることは出来ないのではないでしょうか。
たとえていえば
空から俯瞰する者だけが知ることが出来るのではないか。

日常の「現実」とは
日常的な意味やイメージを介しての「虚構化」であるとすれば、
詩という「現実」は
詩的な意味やイメージによる「虚構化」である
ということになります。

しかし詩という「虚構化」は
日常という「虚構化」に抗うものではないでしょうか。

大変分かりづらい言い方になりますが、
詩とは、
日常の強制的で惰性的な「虚構化」に抗うために
言葉を越えた言葉、
つまり「大文字の他者」の謎と闇に身をゆだねる
「虚構化」ではないでしょうか。

詩を書こうとする。
すると「大文字の他者」である言葉のうごめく
窺い知れない闇が
私のかたわらに立ち現れる。
なけなしの言葉を精一杯かきあつめ
その闇に投げ与えつづければ
いつか星座のような「虚構」が現れる──

日常という虚構が人が生きていくためのものであり
つまり有償なものだとしたら、
詩とは無償の虚構であって
「本当の現実」つまり「空虚」を蘇らせるために
書き続けられていくのでしょうか。