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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「フクシマ以後詩を書くことは野蛮か」(二)

しばらく原理的に考えていきたいと思います。

アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」
このアドルノのテーゼは挑発的です。
それは「詩」と「野蛮」という最も対極的な二つを、有無を言わさず串刺し?にしているからです。

けれど、この二語は並べてみると、
いつしかそれぞれがかたわらにあることで作用を及ぼしおのずと変質するようです。
あれ、詩って野蛮なものだったのかもしれない、と思わせられる。
あるいは野蛮って詩のような何かだったのかもしれない、とも。

いずれにしても挑発的なのは「野蛮」という語です。
私個人としてはこの言葉はとても好きなのですが
しかしアドルノはどのような意味で使ったのでしょうか。

テオドール・W・アドルノ(1903−1969)。
ドイツの哲学者、社会学者、作曲家、音楽評論家。
父はユダヤ系でワイン商人、母はカトリック教徒で歌手。

とすると、アドルノはドイツにおいては、人種的に半ば「野蛮な」と目される立場にあったと思われます。

しかもこのテーゼが書かれた当時はナチスの記憶も生々しく
むしろそれまで輝かしい文明とみなされたものこそが野蛮であると
痛感されていたはずです。

ナチスとは決してそれまでのヨーロッパのブルジョア文化と断絶して現れたものではなかったはずです。
むしろブルジョア的な安定志向の文化こそが、異質なものを「野蛮だ」として排除してきた「野蛮」なものだったはずです。
アドルノは、ユダヤ系としてそのことを身を以て知っていたでしょう。
だから件のテーゼでは
詩だけではなく、詩さえも野蛮だ、という意味で
じつは文化のすべてを野蛮だと断じているのです。

しかし、詩を書くことさえも野蛮だ、ということは
詩には、野蛮を免れる可能性があるということではないでしょうか。

実際アドルノパウル・ツェランの詩を読み
自分のテーゼが間違っていたかもしれないとも言っていたそうです。

では詩には野蛮を免れるどのような可能性があるのか。
それは決して、「存在価値が小さい」とか「野蛮になるほどのことを何も言わない」
という消極的なことではないと思います。

何か、もっと、野蛮と文明という、それこそ野蛮な二項対立そのものを
深部で打ち崩すものが、詩にはあるのではないでしょうか。