飯館村は当初は避難区域に指定されず、住民は村に残りました。
しかし、実際は村の土壌は高濃度の放射能に汚染されていました。
四月になってようやく国によって計画的避難区域に指定されました。
阿武隈山地に位置している、農業が基幹産業の村。
30年前冷害で被害響を受けてからは畜産業に力をいれ、
努力して「飯館牛」をブランド牛にまで育てました。
有機農法で野菜や米を丹念に作り、都会へも売り出していました。
その矢先の、福島第一原子力発電所の事故です。
村人は皆、突然奪われたものの大きさに、茫然としていました。
悲しみと諦めと怒りのないまざった表情と声音から、苦悩の底知れなさが伝わってきました。
見ていて、胸がえぐられるようでした。
有機農法の農家の奥さんの、凍み大根の袋の山を叩きながら
ちっとも売れない、事故の前に作ったのに、という嘆き。
25年の間、交配を繰り返して、作りだした大切な素晴らしい牝牛を
ついに手放し、嫌がる牛を何とか乗せたトラックを見送っていた酪農家のまなざし。
家族がばらばらになる前夜、アルバムを見て回想する家族。
農業を辞めて、原発からほど近い東京電力の火力発電所で働くことになった青年の
原発に行く車を見ながら
原発で働く人はいっぱいいる、と自分に問いかけるようにこぼした呟き。
村の最後のお祭りで、最後に顔を合わした村人たちの淋しそうな姿。
飯館村は、映像で見るだけでも、どれだけ美しい村であるか分かりました。
緑と水の煌めきが、本当に痛切でした。
原発は、途方もない罪を犯したとあらためて思います。
ひとから、ひとがその自然と共にそこで生きてきた場所、ふるさとを奪うことは
そのひとの命を生きながら奪うことにもひとしいのではないでしょうか。
村人たちは都会の避難先で、奪われた緑や水の煌めきを毎晩夢に見るでしょう。
そして見るたびに、目ざめてから辛い涙を流すでしょう。
ところで『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』を出してから
早いものでそろそろ一年になります。
同書を一緒に共同編集し
ご自身も自分の半生を叙事的に描いた「ふるさと」という作品を寄せた許玉汝さんが
仙台の東北朝鮮初中級学校での朗読会の翌日の7月10日
生まれ故郷である青森県平川市碇ヶ関を初めて訪ね、
現地の方々の尽力で、自分の生まれた場所を探し当てました。
許さんは記念として連作「生まれ故郷碇ヶ関を訪ねて」を書かれましたので、
「ふるさと」を読まれた方はぜひご一読下さい→kinenshi.PDFをダウンロード
日本で生まれた在日コリアンにとって故郷が二つあることの悲しみと喜びに
私も想像を馳せたいと思います。