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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸「瓦礫の中から言葉を」を見て(終)

絶望できるということは、人の能力の一つである。

悲しみをもっと深めていく。絶望をもう一段深めていく。
魂の悲しみの質に合った言語を探して
それをひとつらなりの表現にしていく、
それが絶望から這い上がる手がかりになる。
絶望、悲嘆は深めつつ言語化していく。それは若くても必要なことだ。

そう、絶望とは言葉を失っていく、地獄への落下のようなもので、
その時は本当にどんな言葉も信じられなくなります。
今、震災という大きな地獄にちりばめられた個々人の小さな地獄へ
今多くの人が誰の眼にもふれえず落下していることでしょう。

私自身も、かつて自分の地獄に落下した時のことを想います。
病によって何もかもどうでも良くなった数年間がありました。
立ち直ったのは
自分の悲嘆を言葉によって表現しえた、と思えたその時からでした。
とりわけ詩的な比喩によって闇を光に変えられたと感じた時
生きていけるのではないか、と思えるようになりました。

不思議です。
その時実感したのは私が一人ではないということでした。
恐らく言葉は、私だけのものではなく
これまで生き死にしてきたすべての人の
よりよく生きたいという意志がこめられているのだと、感じたのです。

とりわけ、2007年の春に
尹東柱の詩を書き写したことは、私のその後にとって大きな力をもたらしました。

またその少し前には、辺見さんの『自分自身への審問』から、大きな勇気を与えられていたのでした。

私たちを見捨てた言葉を
私たちはもう一度回復する必要がある。

廃墟にされた外部に対する内部をこしらえなければならない。
新しい内部を自分の手で掘り進まなければならない。
著しく破壊され、暴力の限りをふるわれた外部に対して
私たちは新しい内部をあなぐり、それを掘らなければならない。

それは徒労のような作業かもしれないけれども
意味のないことではない。
それは決してどこか虚しい集団的鼓舞を語ったり、日本人の精神という言葉だけを振り回すことではない。
もっと私(わたくし)としてという個的な実存に見合う
腑に落ちる内面というものを自分にこしらえるということが
希望ではないか。

外部が今後仮に全面的に復興したとしても
私たちの魂にとっては外部はすでにあのように破壊されつくしてしまいました。
外部はあのように破壊されうるという事実を、私たちはつきつけられてしまったわけです。
辺見さんのいうように、これから私たちが私(わたくし)として生きつづけるためには
内面あるいは内部を
それぞれが瓦礫から忍耐強く拾いつづける言葉によって
新たな次元でこしらえなくてはならないのです。
そうでなければ、人間でもなくなってしまうでしょう。

今は絶望の深さから希望の深さへと
それぞれの内面を掘り進むことで向かう
ひとしれぬ真の創造の時です。

番組における辺見さんの言葉は
ひとりひとりの靜かな穴の中に染み入る水のような
誠実さと優しさ、そして真実の暗さと叡智の明るさに満ちたものでした。
今このときにこそ、辺見庸という詩人の言葉と生きざまが
このくにの一人一人の魂に、染み入っていくことを願っています。

(なお来月号の「文學界」には番組でも紹介された詩も含めた作品が掲載されるとのことで、本当に楽しみです。)