「我らにも平等を」というのは当然の叫びです。
生徒たちは多くをのぞんでいるわけではありません。
へだたりなく扱ってほしいと言っているだけです。
私は朝鮮学校を二度ほど見学しました。
ひたむきに真面目に授業を受けている生徒たちの姿は
学ぶことのとうとさを久しぶり私に教えてくれました。
忘れていたオーラでした。
日本の学校では今ほとんど見られない学びの姿勢です。
戦後
失われていた朝鮮語を学ぶために
祖父母たちあるいは一世たちが苦労して一生懸命築いてくれた学校。
その後も父母たちが生活も大変な中で
必死で守ってくれたハッキョ。
朝鮮学校の生徒たちはみな
学校の建物や調度品や壁や廊下や窓のひとつひとつが
オモニやアボジたちの
そのまたオモニやアボジたちの
汗と涙の結晶であることを身の内で知っているのです。
だからそうそう怠けることはできない。
落書きもしない。
居眠りもしない。
それは決して個性の抑圧や集団主義というのではなく
一人一人が感じ尽くし考え尽くした中で
選び取った決意の姿なのです。
朝鮮学校生として生きようという
凜とした個性の発現です。
石川逸子さんが
「本来なら謝罪の心をこめて、何はおいても真っ先に無償化するべきではありませんか。」
と書いていますが、
私も同感です。
その場合「謝罪」というのは過去の歴史についてはもちろん
激しく悩みつつも志高くありつづけようとする
朝鮮学校生のかけがえのない魂の努力に
報いることができない現実についてでもあるのです。