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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

朗読考(一)

紀州での朗読会は、これで三度目です。
昨年の9月に田辺市と熊野市、今年の2月に熊野市で行いました。
朗読自体は共同の朗読会で何度かしたことがあります。

現代詩の朗読の方法は色々あると思います。
すでに書かれてある言葉にいかに今このときの声をのせるか
は人それぞれだと思います。

かつて吉増剛造さんの朗読をよく聴きに行きました。
朗読の空間の中空にある「っ」にさえも舌でふれるという
今このときの世界と自身の肉体との触発のしあい、擦れあいが
素晴らしかったように思います。
火花やしずくや金属の音のように声を発する肉体に
この世の闇をきりさいてあらわれた詩人という特異な存在
をありありと実感させられ
解放感を与えられました。

つまり
いかに朗読するかは、その詩人の言葉との向き合い方次第です。
朗読のさいには
詩が書かれていった際の喉のうごき
(言葉を書く時に私たちの喉は必ずわずかに動いているそうです)
がいやがおうでも再現されてしまうのかもしれません。
あるいはじつは
書いていったそのときどきの喉のうごきの幅、音域だけしか
朗読者には与えられていないのかもしません。

そして朗読者を限界付けているのは
根本的には朗読者と日本語との、いわば「関係史」なのでしょう。

私は東京で生まれ、18歳まで東京の新興住宅地で育ちました。
18歳で京都に来ました。

つまり平板な関東平野から三方を山に囲まれた盆地へ来た
という空間的な違和感と
過去といえばいきなり縄文時代となる歴史のない場所から
応仁の乱がいまだ生々しく語られる、全身歴史の古都へ来た
といういわば歴史的な落差
があったわけです。

しかしそれ以上にまず断絶感を抱いたのは言葉においてです。

私は「語る人」としては
京都弁はもとより関西弁もいまだ当地では恥ずかしくて使えません。
喉にはいわば生来のみえないギプスをはめられているのでしょう。
しかし恐らく私の書く詩自体がそうなのだと思います。
みえない近代日本語のギプスがしっかりはまっているのです。
そして半ば意図してはまっている。
しかしとりわけ詩という言葉の「自由なる自由」(ランボー)に向かおうとすとき
自分自身のいわば言語的限界に
私はこれまでかなり苦しんできたようです。