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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「フクシマ以後詩を書くことは野蛮か(三)」

アドルノは1949年に語った『アウシュヴィッツ以後詩を書くことは野蛮である』というテーゼを
1966年の『否定的弁証法』で次のように訂正しています。

「絶え間なく続く苦しみは、拷問にかけられた人がうめき声をあげるのと同様に、表現への権利を持つ。それゆえ、アウシュヴィッツ以後もはや詩は書かれえない、と言ったのは、間違いであったかもしれない。」

この「訂正」には、パウル・ツェランとの対話と、その詩を読んだことも一つの要因としてあったようです(関口裕昭『評伝 パウル・ツェラン』)。

しかし同時に同書では
アウシュヴィッツ以後の文化は、それに対する痛烈な批判もひっくるめて、すべて、ゴミ屑だ」とも書いています。

つまりアドルノは、ツェランによって詩の希望を与えられながらも、それ以外はゴミ屑としか見えない絶望との間で、揺れ動き続けたのでしょう。

しかしツェランの詩はどのように、「アウシュヴィッツ以後の野蛮」を乗り越えているのか──それは、最初の引用部分の、「絶え間なく続く苦しみ」からあげられた「うめき声」があるからだ、ということでしょう。

うめき声、傷、痛み、うったえ、うた、歌──それが彼の詩には真実のあり方で存在しているということです。

その痛みは、たしかに死者の痛みに共振している。だからこそ、アウシュヴィッツ以後、表現の権利があるのです。

つまり大切なのは、表象=イメージ=見ることの支配欲(それこそがアウシュヴィッツを生みだした全能感に繋がります)を離れて、無となって、耳を澄ませ、共振すること──
その結果、?まれた比喩やイメージであれば、野蛮ではないのです。

ツェランの詩の原点とも言える、母への追悼詩を掲げて、今日は終わります。
これがどのような意味でアウシュヴィッツ以後なのかは、明日にでもまた記事に出来たらと考えています。

(『罌粟と記憶』に収められていますが、タイトルのない詩です。)

ハコヤナギよ、お前の葉が暗闇のなかを 白く見つめている。
ぼくの母の髪は 決して 白く ならなかった。

タンポポよ、こんなにも緑だ ウクライナは。
ぼくの金髪の母は 帰って来なかった。

雨雲よ、お前は 泉のほとりで ためらっているのか?
ぼくのひそやかな母は 皆のために 泣いている。

丸い星よ。お前は 金色のリボンを結ぶ。
ぼくの母の心臓は 鉛で 傷ついた。

樫の扉よ、誰が お前を 蝶番から 外したのか?
ぼくの優しい母は 来られない