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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

シナリオ『空と風と星と詩』

趙漢信(チョ・ハンシン)作、ピョ・ジェスン演出の『空と風と星と詩』の日本公演台本(日本語版)を、入手しました。公演は、昨年11月に日本の立教大学などで行われました。

 趙氏は1966年ソウル生まれ。創作集団「鏡と灯盞」代表。

 タイトルから分かるように、これは尹東柱の半生を描いたもの。

  舞台は解放後、『空と風と星と詩』の出版記念会から始まります。鄭芝溶や姜處重や文益煥といった、東柱にゆかりの人物たちは、詩集を賛嘆すると同時に、それゆえ東柱の死を深く悲しみます。物語は、平壌崇実中学からソウル延禧専門学校、そして日本留学時代と続きます(ラストの部分は欠落していました)。

 東柱が友人たちに創氏改名と日本留学への決意を語る場面は、場面転換の鮮やかさと共に迫力があります。あの、神への懐疑を滲ませた「八福」(「悲しむものには 福(さいわい)があるはずだ」)を八度繰り返した後、「彼らは永遠(とこしえ)に悲しむだろう」という一行で締めくくる)を朗読した後、東柱は以下のような決意を述べます。

「(決意したように)このままではいけません。私は名もない詩人であり、才能といっても粗末な詩を作ることしかありません。再びペンを持ち、書き続けます。私の血と魂に約束します。いつか自らを犠牲にしなければならない日が訪れるとしても、私が栄光に包まれた殉教の道を歩まねばならないなら・・・・・・・その時が来たら、ためらうことなく飛び込むでしょう。慰めだけでは足りない世の中です。(宣言するように)これから私の詩は私の武器です。」

 末尾の「これから私の詩は私の武器です」という言葉には、私も色々思いがめぐります。、抒情詩こそが武器たりうるという、東柱が体現した、詩が本来持つ謎の力について。

 また、東京で知り合った同じ留学生朴チュネという女性との、甘やかな会話も、素晴らしい詩論になっています

東柱「どうです? 声楽を習うのは面白いですか?」
朴「ええ、とっても面白いわ。私の好きなことですから。どうですか?詩はずいぶん書かれているの?」
東柱「本当におかしなものです。世の中は更にむごたらしくなっているのに、詩は書かれつづけます。果てなく。」
朴「情が深いからですわ。」
東柱「そうですか?」
朴「情が深いゆえ、たくさんの悲しみを感じるんです。だから、詩が果てなく生まれるのです。」
東柱「理解してくださってありがとう。」
朴「一度、聞きたいわ。直接書いた詩を。」
東柱「今度持ってきてあげましょう。」
朴「いいえ、直接読むのを聞きたいんです。詩人が直接読む詩を。」
東柱「(気分が良く)僕が詩を読んだら、チュネさんは歌ってくれますか?声楽家が直接歌う歌を聞きたいですね。 
朴「(笑顔を見せて)いいわ。(嬉しそうにうなずく)」

「情が深い」とは、たしかに東柱の詩の本質を名指しています。たくさんの悲しみを感じるゆえに詩が果てなく生まれる。つまり詩とは感受性の産物でもあること、なおかつ「たくさんの悲しみ」=悲しみの数と質を経験しなくてはならないこと、つまりリルケが言ったように、詩とは経験であることをも語っています。

 そして別の場面(恐らく最後の逢瀬のシーン)で朴との会話。

朴「どんな方のことを思って詩を書かれるの?」
東柱「(こみあげる悲しみをどうにか堪え)僕に許されないものが何かを悟らせてくれた人です」

 その人とは、恋人朴のことを直接には指しています。しかし詩とは、そのように、つねに悲しみの中に失われていく他者のためにこそ書かれる、書かれてしまう、という、詩の真実を語っている気がします。

 東柱という詩人の人物像をいかに現実化、実像化するか。それは最終的には詩を読む一人一人の中で行われる営為だとしても、このように演劇というジャンルにおいて、台詞だけでなく、他者との関係性や、空間的配置や、美術や音響とのコラボにおいて、浮き彫りにすることは、詩人と詩の謎に迫る、画期的な試みでしょう。